日本ボクシング史上最大の興行は新たな好ファイトを生み出した。

 5月6日、東京ドームで行われた世界スーパーバンタム級の4団体統一戦で、井上尚弥(大橋)がルイス・ネリ(メキシコ)に6回TKO勝ち。井上は初回にネリの左を浴びてプロキャリア初のダウンを喫するショッキングなスタートとなったが、その後、2、5、6回に合計3度のダウンを奪い返して豪快な勝利を飾った。多くのドラマを生み出したこの試合を、欧米の関係者はどう見たのか。

 試合後、リングマガジンの元編集人(マネージング・エディター)であり、現在はスポーティングニュースで健筆を振るうイギリス人ライター、トム・グレイ氏に意見を求めた。リングマガジン、スポーティングニュースの両方でパウンド・フォー・パウンド(PFP)ランキング選定委員を務めるグレイ氏は軽量級、アジアのボクシングにも精通しており、その言葉には常に説得力がある。(以下、グレイ氏の一人語り)

「イノウエはもっと注意深く戦うと思った」

 第1ラウンドに井上が喫したダウンには私も驚かされました。ネリのような強打者が相手なのだから、序盤の井上はもっと注意深く戦うと思っていました。だから何かドラマチックなことが起こるとすれば、フロアに倒れるのは井上ではなくネリの方だと予想していたのです。それが強烈にダウンしたのは井上の方でした。

 ネリと日本ボクシング界の過去の因縁が影響していたのか、井上が序盤、気負っていたのは事実でしょう。たとえばスティーブン・フルトン(アメリカ)のようなアウトボクサーが相手なら、早くから積極的に攻めていくのは理解できます。一方で、ネリのようなタイプにいきなり仕掛けていったらリスキー。そういった意味で今戦の井上は向こう見ずであり、ミスを犯したと言えると思います。

 あのダウンは一見すると強烈に見え、激しくダメージを負っていても不思議はなかったでしょう。

 立ち上がった際にはレフェリーともアイコンタクトをしており、自身がどこにいるかがわからないほどのダメージではなかったようでした。ただ、少なからず効いていたのは確かだと思います。

 ただ、そのダウン後、井上はしばらく後ろに下がって危険を回避すると、2回以降、やり遂げたアジャストメントは見事なものでした。あの一発のあと、井上はネリの左パンチをほとんどまともには浴びなかったはずです。そうやってネリの最大の武器を取り除いたことこそが、この試合における最大の鍵となりました。

大振りになるネリ、効果的だったボディ

 第1ラウンドで成功を収めたため、ネリは以降も盛んに左パンチを狙ってきました。自然と大振りになったネリは腕を伸ばしすぎたため、ガードが空き、井上にとってはカウンターがとりやすくなったのです。また、井上のボディ打ちも有効だったと思います。2回以降、試合の流れは井上の方に一気に傾いていきました。

 ネリは2回、左フックで喫したダウンからはよく回復しましたが、5回、また左フックでダウンした際にはもう決着は時間の問題でした。迎えた6回、右アッパー、右ストレートを打ち込んだ井上が痛烈にフィニッシュしたシーンは見事としか言いようがありません。

 こうやって振り返っていくと、初回に奪ったダウンはもしかしたらネリにとって災いに働いたと見ることもできるかもしれません。あのシーンのあと、大振りになり、井上をより集中させることになったのですから。

 ただ……結局のところ、すべては必然だったのでしょう。初回のピンチで致命的なダメージを受けなかった井上は2回以降、一段上のスキルを誇示し、ネリはそれにまったくついていけませんでした。技術だけでなく、井上にはパワーまで備わっているのですから、誰も対抗し切れないのは当たり前のことでもありました。

 全体的にこの日の井上からは、強烈なKOで試合を終えたいという意気込みが感じられました。日本で尊敬される存在だった山中慎介との間に因縁があった“悪役”のネリをはっきりとした圧倒的な形で成敗したかったのでしょう。4回、相手を挑発するようなパフォーマンスを見せたのもその一環だったんじゃないかと思います。

「モハメド・アリもダウンを喫している」

 一部のファンの意見とは違うのかもしれませんが、個人的には今戦は井上のキャリアで最高級のパフォーマンスだったと思います。ソーシャルメディアを見れば、ダウンを喫したがゆえに批判的な意見を目にするのでしょうが、それは馬鹿げていますよ。

 モハメド・アリ(アメリカ)は世界ヘビー級王者になる前、格下の相手との対戦でダウンを喫したことがありました。シュガー・レイ・レナード(アメリカ)もジャーニーマンのケビン・ハワード(アメリカ)にダウンさせられたことがありました。ソーシャルメディア上の人々は常に完璧なものを求めますが、どんな偉大なボクサーでもピンチを迎えることはあり得るということ。井上は今回、彼の階級ではハイレベルのパンチャーと対戦し、ダウンを喫した後はその選手をほぼ完封して見せたのです。

 昨夏のフルトン戦こそが井上にとってのベストパフォーマンスだと考えていますが、ネリ戦もキャリアのトップ5に入るというのが私の見方です。ミスを犯してもすぐに修正し、適切なアジャストメントを行った上で強敵をフィニッシュしたのだから、採点をしろというならAプラスを与えますよ。

 ネリ戦を見て、私は井上こそがパウンド・フォー・パウンド(PFP)でもNo.1のボクサーだと改めて感じました。

 昨夏、同時期に試合を行ったテレンス・クロフォード(アメリカ)と井上の戦いぶりはどちらも最高級だったのですが、クロフォードが戦ったエロール・スペンスJr.(アメリカ)の方がフルトンよりも格上の対戦相手だったという理由でPFPではクロフォードを上に据えました。昨年12月、まず勝機はないように感じたマーロン・タパレス(フィリピン)を井上がKOした後でも、まだクロフォードが上でいいと思いました。ただ、スーパーバンタム級では最も危険な選手と目されたネリを沈めた井上の最新の勝ち星は評価されていいでしょう。

 2020年代に入り、井上はこれが8戦目ですが、クロフォードは4戦のみ。パフォーマンスの質に加え、試合頻度の面まで考慮し、井上こそが現役ベストファイターと認められるべきだというのが私の意見です。

「アメリカやイギリスに来る“必要”はない」

 井上とネリが激闘を繰り広げた東京ドームは素晴らしい雰囲気になっていましたね。ラスベガスのビッグファイトではメインイベントまで場内がガラガラなんてことはよくありますが、東京ドームはアンダーカードの段階で4万人以上の観客で埋め尽くされていました。これほど見事な空間なのだから、井上は今後も東京ドームを本拠地のようにして戦い続けてほしいと願わずにはいられません。

 先日話題になっていましたが、今ではもうアメリカは1960、70年代のようなボクシングの絶対の中心地ではなくなりました。個人的には井上にアメリカでも戦ってほしいし、イギリスにもまた来てもらいたいですが、その“必要”はありません。

 井上は日本を舞台に多くを成し遂げ、大金を稼ぎ、優れた技量を見せ続けているのだから、これからも自身の望む場所で戦い続けるべきなのでしょう。

◆後編では、ネリ視点で井上尚弥との戦いをレビューする(近日公開)

文=杉浦大介

photograph by JIJI PRESS