大学3年時に東海大初の箱根駅伝優勝に貢献する8区区間新の走りを見せ、4年時にも2年連続となる区間賞を獲得した小松陽平。前回に引き続き、本人が大学卒業後に入社したプレス工業を離れ、日立物流に移った後の陸上人生を振り返る。(Number Webインタビュー全3回の第3回/初回から読む)

「大学までの選手だった」と言われている気がして…

 プレス工業から日立物流(現ロジスティード)に移籍した小松陽平は、2021年春のトラックシーズンから本格的に活動を開始した。心機一転、新しいチームで走力を磨き、トラックでまずは結果を出していこうと考えていたのだ。

 しかし、思うように走れない日々がつづいた。

「全然、走れなかったですね。プレス工業に入ったばかりの頃は、大学で走っていた貯金があったのか、5000mで13分46秒を出して順調にスタートが切れたんです。でも、それからダメで、日立に移籍してからも走れなかった。何が原因か分からなくて、苦しかったです。『小松は大学までの選手だったんだな』と言われている気がして、そう思うとなんか悔しくて、見返してやりたいと思っていました」

 それから小松は、心機一転「大学時代の自分を越えたい」という明確な目標を立て、集中して練習に取り組んだ。チームメイトの栃木渡について走り、大学時代のように前を行く人に追いつき、追い越したいと思うようになった。

大学時代の自分を越えられたなぁ

 結果が出たのは、1年後だった。2022年7月のホクレンディスタンス千歳大会の5000mで13分36秒28の自己ベストを出した。11月のニューイヤー駅伝の予選会(東日本実業団駅伝)では1区4位で予選会3位通過に貢献した。2023年のニューイヤー駅伝では1区を任され、13位とまずまずの走りを見せた。

「自己ベストも出せたし、ニューイヤーも走れた。大学時代の自分を越えられたなぁという手応えがありました」

 次回こそは区間賞を取るという気持ちが盛り上がり、勝負の1年と考えていた矢先、小松にとって衝撃的なことが起きた。慕っていた栃木が3月末で退部することが決まったのだ。

自分の力だけで強くなる、それができなかった

「すごく悲しかったですね。高校や大学でも一匹狼みたいな感じで、自分の力だけで強くなれる人っているじゃないですか。僕は恥ずかしい話、それができなくて、人やチームの雰囲気に頼るというか、左右されてしまうんです」

 小松が東海大時代、成長できたのは、目標となる黄金世代の強いライバルたちと切磋琢磨していける環境があったからだ。実業団でも同じ環境を求めていたが日立物流でそれが実現した。これからさらに成長していこうと思っていただけに、先輩の退部は、ダメージが大きかった。

「昨年のトラックシーズンは、ロジスティード入社1年目みたい感じでした。練習でもレースでも追い込めるはずなのに追い込めない。力を出し切れないレースが続きました」

 4月のNCG(日体大)記録会5000mでは13分57秒57、5月のGGN(ゴールデンゲームズイン延岡)5000mでは13分53秒62、7月のホクレンディスタンス千歳大会5000mでは14分32秒21まで落ち込んだ。「もう限界かもしれない……」と思った。それでも夏合宿で調整した結果、9月の世田谷競技会10000mでは29分18秒93でチーム内での出走者9名中4位になり、調子が戻って来た。11月の東日本実業団駅伝は、チームに貢献できるぐらいまで状態が上がっていた。

メンバー外で見えてしまったもの

 だが、小松は出走メンバーから外れた。

「この時、メンバーから外れたら引退しようと決めていました。このシーズンは、苦しかったけど、ようやく走れるところまで上げることができた。実力がある若い選手の突き上げとかもあったけど、走れる自信があった。でも、監督が選んだメンバーに入れなかった。そこで自分の実力というか、自分の限界が見えてしまった気がして……。五輪や世陸を狙える力がないことは自覚していたので、自分には駅伝しかなかった。その駅伝で貢献できない自分は、陸上をつづけていく意味がないと思ったんです」

急遽出場で脱水症状に

 引退を決意したがニューイヤー駅伝の登録メンバーには名前が入っていたので、自分のことでチームに迷惑をかけるわけにはいかない。引退は自分の心の中にとどめ、練習は継続していたが気持ちが乗らず、空虚な日々がつづいた。ところが、大会直前に体調不良の選手が出て急遽、小松に出番が回って来た。

「区間配置が決まった時、自分の名前がなかったので、これで本当に終わったと思っていました。そこで気持ちが切れましたね。でも、直前に、いきなり出ることになって正直、調整を含め気持ちを持っていくのが難しかった」

 今年のニューイヤー駅伝、小松は1区に配された。いつもなら「区間賞を取ってやる」とギラギラした気持ちでスタートに立つが、この日は、最後のレースを決めていたせいか、悔いなく走ろうという気持ちだけだった。

 スタートして、4キロ地点で息苦しさを感じた。徐々に遅れだし、脱水症状に見舞われてフラフラになった。結果は41位。最下位に終わり、チームは総合40位に終わった。

出てきた感情は「悔しい」ではなかった

 ホテルで休養し、徐々に回復してきた時、小松は過去のレースの時とは異なる気持ちになっていることに気が付いた。

「これまでの自分だったら、こんなレースをした時は悔しいし、リベンジしたいという感情になっていました。でも、この時は、悔しいじゃなくて、悲しいだったんです。悔しいという感情がない、チームに申し訳ないという悲しさだけだった。悔しさって、人が成長していく上ですごく大事な感情だと思うんですけど、それがなくなってしまった。僕はもう陸上で戦う人間じゃなくなってしまった。もう、ここまでだなって思ったんです」

慰留も引退の意志は固かった

 ニューイヤー駅伝が終わり、チームの全選手が集まって報告会を終えた後、別府監督に「今回で引退しようと思います」と伝えた。別府監督から「1週間オフにするからその間によく考えてほしい」と言われた。その期間、小松は青学大が優勝した今年の箱根駅伝や自分が走ったニューイヤー駅伝を見直した。

「ニューイヤーの自分の恥ずかしい姿を見たくなかったんですけど、見たんです。全体のレベルがすごく上がって、箱根も学生のレベルが非常に高かった。なんか、もう自分が実業団選手として戦えるレベルじゃなくなってきているな、もう太刀打ちできないなって思いました。実際、チーム内で若手がポンポンいいタイムを出して、10000mも学生が27分台を出している。5000mの自己ベスト(13分36秒)は悪くはないけど、これ以上のタイムを出せる気がしなかった。今の陸上界は、もう自分がついていける世界じゃなくなった。やろうと思えば続けられるけど、適当につづけてムダな1年をおくるよりは、ここで区切りをつけようと思い、『引退させてください』と監督に伝えました」

満足しちゃったらダメ

 ロジスティードには優秀な選手が集まり、出走できなくても優勝は狙えるところまで来ていた。だが、それでは意味がなかった。ギラギラしたものを発散して走り、勝負する世界が小松にとっての陸上だった。ニューイヤーに出られたのは、繰り上げだからであって実力ではなかった。自分が走ってチームに貢献できない陸上に未練はなかった。

「今、思えば大学で箱根や全日本で優勝して、満足したところがあった。その後、5000mの自己ベストを更新して、ニューイヤーを走れて、おおむねやれることはやった。プレーヤーは、やっぱり満足しちゃったらダメですね」

 両親に引退のことを伝えると「陽ちゃんがそういう判断をしたなら尊重する」と理解してくれた。

現役最後のレースでまさかの同タイムとなったのは…

 現役最後のレースは、2月の丸亀ハーフだった。

 そのレースには東海大の同期・鬼塚翔太も出走していた。大学時代のエースの背中を追えた喜びがあったが、最後は苦しみながらゴールした。63分49秒のタイムは、小松が箱根駅伝の8区区間新を出した時と同タイムだった。自らの名前を世に知らしめ、現役の終わりを告げるタイムが重なる数奇な巡り合わせで、最後のレースを締めくくった。

今後の目標は…

 小松は今、社業に専念し札幌に生活の拠点を移している。

 関東を離れる前、東京で大学同期の郡司陽大と食事をした。東海大時代、黄金世代の同期に負けまいと共闘し、箱根駅伝で優勝に貢献した同じ叩き上げの盟友だ。郡司は、2021年10月に引退し、その後、うつ病を発症し、今も回復途中にいる。小松は郡司が「箱根駅伝で優勝しなきゃよかった」とまで言い切り、苦しみを吐露した記事をつらくて読めなかったという。一方の郡司は、「ニューイヤー駅伝の走りを見た時、小松らしくない。もしかしたらやめちゃうのかも」と思っていたという。気脈を通じる二人は現役を退いたが、走ること自体はやめていない。小松は、自分が楽しめる範囲でつづける予定で、市民ランナーとして、すでに5月19日の洞爺湖マラソンにエントリーしている。

「これはガチで走って2時間20分を切って優勝したい。その後は、何をするか。うーん、とにかく幸せになりたいですね(笑)」

 引退を決めた今も大学4年の時の箱根駅伝のビデオは実家に封印したままだ。小松にとっては、一番苦しく、悔しいレースだった。それを見られるようになった時、陸上を除いた人生において小松はきっと大きな幸せを掴みとっているはずだ――。

小松陽平(こまつ・ようへい)

1997年11月2日生まれ、東海大四高(現・東海大札幌)から東海大に進学。3、4年時に箱根駅伝に出走し2年連続で8区区間賞を獲得。卒業後はプレス工業に入社。2021年から日立物流に加入し、ニューイヤー駅伝に2度出場。今年3月、引退を発表。5月19日の洞爺湖マラソンに出走予定

<初回からあわせてお読みください>

文=佐藤俊

photograph by Wataru Sato