井上尚弥に真っ向から勝負し、派手に散った“問題児”ルイス・ネリ。来日から2週間、ネリを追い続けた取材記者が見た“敗者の異変”。【全2回の後編/前編も公開中】

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 5月4日、横浜市内のホテルで記者会見が行われる。羽田空港で20人、公開練習で70人規模だったメディアの数は100人を超えた。「すごい人だな」「こんなに集まってるの初めてじゃないか」。そんな記者同士の会話も聞こえてくる。

 10日ぶりに見たネリは、プラダのセットアップにサングラスという姿。頬が一層そげ、公開練習のときから見違えるほど細くなっていた。「死を覚悟して戦いに挑む」。ボソボソとした口調はそのまま、会見の去り際に自ら井上に歩み寄る。チャンピオンとの握手に合わせて外したサングラスと、会見中に噛み続けたガムは、リスペクトを表せど飲まれまいとする心理の表れか。

「ネリはギリギリなのでは?」

 5月5日、東京ドームホテルで前日計量を迎える。メディアの数はついに200人を超えた。12時35分、またも予定時刻より25分早く、本人を先頭にネリ陣営が現れた。正式計量前の最終確認のため、シャツと靴を脱ぐネリ。あばらが浮き出るほどやせ細った肉体、まるで徹夜明けのような暗い表情。足も棒のように細く見える。リミットをクリアしたのだろう。わずかに笑みを浮かべながらパンチモーションを見せた後、トレーナーに助けられながら靴を履く。一旦退席する。

 12時55分、井上陣営が着席し、その直後にネリが再び登場。先に井上が、制限体重より100グラム軽い「55.2kg」であっさりとパス。続いてネリ、「54.8kg」が読み上げられる。制限から500グラムも軽い。やはり、絞りすぎてはいないだろうか? 

 計量後、500mlの水をゆっくり飲む井上とは対照的に、ネリは赤色のスポーツドリンクを口に流し込むようにして飲む。シャツと靴を自分で身につけた井上に対し、またもトレーナーに靴を履かせられるネリ。このコンディションで、ボクシングの試合ができるのか。この時、ネリは精神的にも肉体的にも極めて危うい状態なのではないかとさえ思った。

「えっ、何も聞いてないんですか?」

 そんな筆者の心配をよそに、メディア集団に混じって座るネリ陣営から歓声が飛ぶ。

 「ニュー、チャンピオン!」「パンテラ(愛称の「豹」)!ネリ!」。その様子を見て思わず笑う井上尚弥を、ジロリと見つめるネリ。メディア陣に背を向けてコーラを飲み、そのまま左手に桃の缶詰を持ちながら別室に移動する。ボクシングの「減量」の過酷さを垣間見た。

「早く帰りたがっている。囲み(取材)はない」

 関係者の声が聞こえる。落胆する記者陣。フードを被ったネリが足早に会場を去るまでの約30分の間に、試合で使用するグローブを巡り別室で騒動が起きていたことを知る。

「えっ、何も聞いてないんですか」

 大橋秀行会長の発言に囲み取材の場がざわめく。聞けばネリが、自ら持ってきた米国製のグローブではなく、井上が使う日本製グローブを使いたいと申し出たという。ネリ陣営による心理戦か。「よくわからない」とやや困惑気味に大橋は言った。しかし、井上サイドにそれ以上の動揺は見られない。

「パンテラ!ネリ」。異様な盛り上がりを見せた計量会場から人が消えていく。その隣、巨人・阪神戦が行われている野球場は、24時間後、ボクシング会場へと姿を変える。

「前日計量よりも顔色がいい」

 5月6日、東京ドーム。プロ野球の観戦に慣れているせいか、会場の薄暗さが新鮮だ。位置関係を確認すると、本来はセカンドベースが置かれる付近にリングが設けられているようだ。4万3000人の熱視線は、鮮やかにライトアップされた鉄筋の正方形に注がれている。

「ニュー」のアナウンス。セミファイナルで武居由樹が世界王座に就いた。地響きのような歓声が鳴る。

「観客のうねりが凄まじいです。こんな盛り上がりは初めて」

 観客席から観戦する編集者からLINEが届く。残すはメインカードのみ。ふとネリを思う。あの極限まで絞られた身体は、恐怖心と攻撃性の繊細なバランスで保たれている精神は、果たして試合まで持つだろうか。

 20時48分。観客が何かを察したように、沈黙が広がる。

 直後、巨大スクリーンにメキシコ国旗が映し出され、ネリとその一団が登場する。ネリの表情を双眼鏡で見て、少し安堵した。前日の計量時より顔色がいい。挑発的なパフォーマンスもなく、落ち着いてリングに向かう。

 リングに登るやいなや、Tシャツを脱ぐ。いつでもゴングを鳴らしてほしい、と言わんばかりだ。井上尚弥がリングに登るまでの間も、ネリは身体を動かし続ける。目線はスクリーンにも、近づく井上にも向いていない。リングの中央をただじっと見つめている。軽くステップを踏みながらシャドウボクシングをする。トレーナーと二言三言、言葉を交わす。頷くネリ。怪物の到着を待つ。

「ネリは本当に嫌われている」

 ネリがリングへと向かう間、観客席からはまばらな野次しか聞こえなかった。「日本中から嫌われた男」は誇張されたイメージだったのではないかと疑ったが、それは勘違いだった。リング上でネリの名がアナウンスされた瞬間、客席のあらゆる方向から、耳を覆いたくなるほどのブーイングが響く。思えば、公式にファンの前に姿を現すのは来日後初めてであった。あらためて痛感する。ネリは日本のボクシングファンから本当に嫌われている……。「パンテラ!ネリ」。同胞であるメキシコ人からの声援も聞こえるが、さみしいものだ。対照的な井上尚弥への大歓声。「完全アウェー」で怪物と戦う。もう、逃げられない。ゴングが鳴る。

 注目は絞られていた。用心深さを欠けばあっという間に打ち込まれ、マットに沈むだろう。恐怖心に支配されれば防戦一方のつまらないショーになる。ネリに残された戦い方に活路はあるのか。

 私はボクシングの試合について語る言葉を持たない。だが一つ、これだけは確信を持って言える。ネリは果敢に攻め続けた。

「もう立ち上がるな…」

 1R、井上からプロ初のダウンを奪う。悔しさよりも驚きが先にたったのか、呆然とする井上。観客から悲鳴さえ上がらない。真に予想外の展開に、4万3000人が言葉を失った。

 しかし試合が進み、井上が落ち着きを取り戻すにつれて、ネリは明らかに圧倒されていく。打たれる。打たれる。が、引き下がらない。顔が赤く腫れていく。よろめくシーンも増えた。だから、5Rに2度目のダウンを喫したとき、率直に「もう立ち上がるな」と思った。羽田空港到着時に見た、ネリの3人の娘が頭をよぎる。あの井上からダウンを奪った。あの井上を恐れずに攻めた。それで十分じゃないか、と。それでもネリは、攻め続けた。恐怖心に打ち勝とうと言い続けた「イノウエは過大評価されている」。自己暗示でもあったかもしれないその仮説を、自らの拳で証明しようとしていた。

 6R、1分22秒。吹き飛ばされながらダウンした瞬間、レフリーが試合を止めた。

そして、ネリは来なかった

 試合後のプレスルームには、相反する感情がないまぜになった、奇妙な空気が充満していた。

 試合結果こそ予想通りだったが、井上のダウンという“アクシデント”が記者たちを動揺させていた。ネリの言葉を待つが、病院に行くため試合後会見は中止となった。肉声を聞きたかった。が、受けたダメージを想像すると、そんなことは言えない。

 いずれにせよ壮絶な試合を「目撃した」と思った。この感覚は正しいのか確かめようと、長年ボクシングを追う英国人記者、トリス・ディクソン氏に尋ねる。彼もやや興奮気味に答える。

「誰も予想していなかった展開。1Rのイノウエのダウンは信じられない光景だった。大きな番狂わせが近づいてる、そう考えた人も多いはずだ。すぐに頭をクリアにしたイノウエもすごかった。この試合は間違いなくボクシング史に残る」

 試合翌日、大橋ジム。井上尚弥は言い切った。

「すべて想定内。初回のダウンは死角からで見えなかった。誤算があるとすれば、そこの角度調整」

 嘘偽りない事実だろう。それほど井上は強かったし、歴然とした力の差はあった。ほぼ無傷の顔がその証左だ。だが同時に、チャンピオンの右頬と額には微小な傷が確かにある。悪童と呼ばれた男が本気で怪物に挑んだ証拠だった。

<全2回/前編《ネリ意外な本音》編から続く>

文=田中仰

photograph by Naoki Fukuda