イチロー、落合博満も認めた「孤高の天才」前田智徳。29年前の5月23日、走攻守揃った広島の外野手にアキレス腱断裂という悲劇が襲いかかりました。天才打者たちを虜にした悲運のバットマンの軌跡を雑誌『Sports Graphic Number』に掲載された4つの証言とともに振り返ります。

22歳の前田が語っていた「自分への期待感」

 <証言1>

 配球を読んで打つというのが好きになれない。

(前田智徳/『Number』322号 1993年8月20日発売)

 ◇解説◇

 1989年ドラフト4位で熊本工から広島カープに入団した前田。1年目春の時点で山本浩二監督と二軍打撃コーチの内田順三をして「技術的に教えることは何もない」と言わしめるほどその打撃は完成されていた。3年目の1992年には130試合に出場し、打率.308を記録。以降、ゴールデングラブ賞とベストナインの常連となり、セ・リーグを代表する走攻守揃った外野手となっていく。

 そのバッティングは伝説の名選手からも賞賛された。同時期にパ・リーグで活躍していたイチロー(当時オリックス)から一目置かれ、オールスターで真っ先に前田智徳のもとへあいさつに出向いたほど。三冠王・落合博満も天才と公言し、賛辞を惜しまなかった。

 その天才が周囲を唸らせたのが、前掲の掛布雅之氏(元阪神)との対談で狙い球について聞かれた際の答えだ。冒頭の発言に続けて「狙ったら、誰でもある程度は打てますよ」と付け加えるなど打撃へのこだわりは単に「打てればいい」という次元を超えていた。その姿勢に掛布氏も「オマエも頑固だなァ(笑)。でも、それはいい点だよ」と感嘆することしきりだった。

 この対談で前田は「今はこの程度だけど、2年後にはここまで行ける、3年後にはもっと上に行けるという自分への期待感がありますからね」と飽くなき向上心を隠すことがなかった。この年も、翌94年も打率3割を記録。天才打者のさらなる成長を誰も疑っていなかったが……。

右アキレス腱完全断裂の後遺症

 <証言2>

 あの時、アキレス腱の切れる『ブチッ』という音が大歓声の中からはっきりと聞こえてきた。

(池山隆寛/『Number』499号 2000年6月15日発売)

 ◇解説◇

 1995年5月23日、1回表。神宮球場でセカンドゴロを放った前田は一塁を駆け抜けた瞬間、足を引きずるようにして倒れ込む。ヤクルトのショート・池山の耳にも届いた音の正体は「右アキレス腱完全断裂」の“断末魔の叫び”だった。

 このアキレス腱断裂によって前田は長期離脱を強いられたが、影響は身体面だけにとどまらなかった。

 復帰後は「ワシはもう終わった選手なんじゃけ」と繰り返し、「やってやろうという前に不安ばかり頭をよぎる」と漏らすこともあった。理想の打撃をストイックに追い求めていたバットマンが強いられた「恐怖心との戦い」。この頃から前田は高い理想を口にしなくなり、目標として「全試合出場」を掲げるようになった。

 ただ、シーズン毎にケガや身体の痛みに直面しながらも1996年シーズンから1999年まで4年連続3割を記録。周囲には復活を印象づける活躍を見せていた。

山本昌が舌を巻いた本塁打

 <証言3>

 前田に打たれたのはいまだにどうやって打ったのか、どこが悪かったのか理解できない。

(山本昌/『Number』841号 2013年11月14日発売)

 ◇解説◇

 30年以上にわたって数々の名打者と対戦してきた通算219勝のサウスポーが左打者への勝負球としていたのが、外角低めのストレート。「100%打たれない自信があった」と胸を張る、生命線のボールだ。松井秀喜や小笠原道大にレフトへ運ばれることはあったが、ライトスタンドへ運ばれた1998年の前田のホームランは数々の勝負の中でも脳裏から離れず、歴戦の48歳が理解不能と舌を巻いた。

 通算174打数も前田と対峙してきた中日のレジェンドは1995年以降も「打つことに関しては変わりなかった」とその評価が揺らぐことはなかった。

 相手投手も恐れた前田だが、2000年3月にFA権を取得した際には、こう言い切っている。

「ケガがなければ考えたけど、今の自分には関係ない話だと思っています。周りが思うのと、自分が考えている力とは違いますから」(『Number』499号)

 周囲から評価をされていても、理想とは程遠い自分の実力を許容することは到底できなかった。ちなみに元中日監督の落合博満は後年、自身のYouTubeチャンネルで「(FA宣言をしていたら)獲りに行ったと思う」と明かしている。

山本浩二が惜しんだ才能

 <証言4>

 無事これ名馬って言うじゃない。前田にそれがあれば、大変な選手になっていたよ。数字にしてもタイトルにしてもね。

(山本浩二/『Number』878号 2015年5月21日発売)

 ◇解説◇

 前田の才能をいち早く見抜いたのが入団時の監督・山本浩二だった。ヒットを打っても首を傾げるなどこだわりが強く、容易に近づけない雰囲気を持っていた前田を「アイツの中に入っていけば心を許すヤツ」と目をかけ続けた。2度目の広島監督在任時の2002年にカムバック賞を獲得、2005年には全試合フル出場を果たし、打率.319、32本塁打、87打点の好成績を残した。しかし前田は2013年の引退に際し「ご迷惑ばかりおかけして、本当にすみませんでした」と山本へ謝罪の言葉を何度も口にしたという。

 打撃タイトル三冠(首位打者、本塁打王、打点王)には縁がなかったが、11シーズンで打率3割を記録。アキレス腱断裂後も18年にわたってプレーし、通算打率.302、通算2119安打の成績を残した。十分輝かしい数字に思えるが、それでもカープを代表する名打者が「もしもケガがなければ……」と思ってしまうところに、前田の野球選手としての天才性と悲劇性が表れている。

 引退後、解説者に転身した孤高の天才は現役時代と一転して、「隙あらばゴルフの話をしだす」「甘いものが大好き」「やたらとマクブルームを推す」などツッコミどころのある饒舌ぶりで人気を博している。ミスター赤ヘルは秘蔵っ子の活躍に「アイツなりに頑張って、よう喋っとるよ」と、嬉しそうに目を細めていた。

文=NumberWeb編集部

photograph by Koji Asakura