119年前の日本海海戦時、仮装巡洋艦「信濃丸」よりも前に艦隊を発見した漁船がありました。しかし大本営への通報は「信濃丸」より“1時間遅れ”で到着。ただ、真実は1時間どころではなかったようです。

「信濃丸」より5日近く早い発見

「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」
 
 1905(明治38)年5月27日午前4時45分、仮装巡洋艦「信濃丸」が発信した第一報で日本海海戦は始まりました。しかし「信濃丸」から5日も前に、バルチック艦隊を発見して通報した日本の船がありました。沖縄の那覇港から宮古島に向かっていた、「宮城丸」という沖縄の伝統的な帆船であるマーラン船です。

「宮城丸」がバルチック艦隊を発見したのは22日午前10時頃。艦隊は沖縄本島と宮古島のあいだを東北へ航行していました。ウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3か所が想定されていましたが、どこを通過するかは分かりませんでした。レーダーは無く、航空機による哨戒もできない当時、洋上で艦隊を発見することは大変困難であり、したがってこの情報は、バルチック艦隊が対馬海峡通過を企図していることを示す極めて重要なものでした。

 ところが「宮城丸」は無線機などを積んでおらず、通報する手段がありません。帆船のため速力も出ず、25日午前9時にようやく宮古島へ到着し漁師が警察署に飛び込むも、ここにも東京まで通報できるような通信設備はありません。

 最速の情報伝達手段は電信でしたが、宮古島から最も近い電信局は約100km離れた石垣島で、そこまで行って電報を打つしかありません。国運を左右するかもしれない重大な役目を担ったのが、宮古島の5人の漁師でした。

バルチック艦隊に迎撃されても不思議はなかったが…

 宮古島を26日午前6時に出発し、同日午後10時には石垣島に到着。さらに島内の八重山電信局に着いて打電したのが27日午前0時のことでした。

「本月二十三日午前一〇時頃、本島慶良間間中央ニテ軍艦四十餘隻柱二三煙突二三船色赤二餘ハ桑色ニテ三列ノ隊列ヲナシ東北ニ進航シツヽアリシガ內一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモノアリ但シ船旗ハ不明、右報告ス」

 艦隊の国籍を不明としていますが、この時期にこの規模で行動している艦隊はロシアのバルチック艦隊しかありません。「宮城丸」が望遠鏡などの観測器材を持っていたとは思えませんが、隻数や進路などかなり精度は高く、艦隊から迎撃される恐れがある中で冷静に観測していたことには驚かされます。ちなみにマーラン船は中国のジャンク型帆船に似ていたので、バルチック艦隊も「宮城丸」を日本船と思わず攻撃しなかったことも幸いしました。

 しかしこの報が大本営に届いたのは「信濃丸」の第一報より1時間遅れで、すでに連合艦隊は戦闘態勢に入っていました。結局、発見から4日と20時間をかけた苦労のリレー報告は生かされることはありませんでした。

 関係者には当時かん口令が敷かれていたこともあり、華々しい日本海海戦の勝利の陰に隠れて、「宮城丸」の第一報は知られることもありませんでした。しかしこの話を掘り起こし有名にしたのが、沖縄県師範学校主事に着任した稲垣国三郎という人物です。稲垣はこの出来事はもっと知られるべきだと活動し、1929(昭和4)年には国語教科書に「遅かりし1時間」として掲載されるようになります。

大本営海軍部の電文が公開 真実は?

 国威発揚の格好の材料とされた5人の漁師は「久松五勇士」と謳われましたが、「久松五勇士」とは「爆弾三勇士」など戦前よく使われた国威発揚物語の典型的フレーズでもあります。戦後もモニュメントが建てられるなど、地元では今でも知られる話になっています。

 しかし、大本営海軍部が受信していた電文が1974(昭和49)年に公開されると、「遅かりし1時間」という話が怪しくなってきます。電文は5月28日午前7時10分八重山局発、10時海軍部着となっていたのです。実際には1時間どころでなく約30時間遅れだったわけです。

 この頃には海戦の雌雄は決しており、日本海軍は残敵掃討に入っている段階でした。海軍扱い電文は軍機のため、正確な発信受信時間など当時は知りようがありません。この「1時間」はどこから出てきたのか。宮古島や石垣島に公式な記録が残っているわけでもなく、関係者のあいだで語り継がれるなかで自然と改変されていったのか、美談仕立てにするため意図的に脚色されたのかは判然としません。

 もし、島嶼部にも情報インフラが整えられ、「宮城丸」の情報が早く届けられていたら、日本海海戦の様相はどう変わっていたでしょうか。せっかく得た情報も適時を得なければ無意味という情報戦の厳しさを示しています。そして現代でも南西島嶼部は、地政学的にも日本の安全保障に大きく関わっており、警戒監視、情報インフラ、守備隊、民間防衛の整備が必要なことは言をまちません。