世界最高峰の米プロバスケットボールNBAで、日本人最長の6シーズンを戦った渡辺雄太。香川・尽誠学園高を卒業後、2013年に米国へと渡り、ドラフト外から最高峰まではい上がった先駆者が、共同通信の単独インタビューに応じた。NBAでの過酷な生存競争とはどのようなものだったのか。昨年のワールドカップ(W杯)で、48年ぶりとなる自力での五輪出場を決めた日本代表の躍進の背景には、何があったのか。パリ五輪での活躍も期待され、来季からは日本のBリーグに戦いの舞台を移す29歳のフォワードが、日本バスケの世界への挑戦について語った。(共同通信運動部)

 ―4月に日本復帰を発表した際に、米国での挑戦を振り返って「1ミリも後悔はない」「自分を褒めてもいい」と話していたのが印象的でした。
 「大学(米ジョージワシントン大)時代、周りにすごい選手がたくさんいましたが、そういう選手でもNBAに到達できなかったりするのを見てきました。NBAに入ってからも、自分より全然うまいと思っていた選手が、気付いたら1、2年でリーグからいなくなっていることもたくさんありました。そういう中でも自分は常に努力し続け、6年、NBAで過ごせた。正直NBAに入る前、6年もやれる自信はなかったです。当時の僕を見て、NBAで活躍するのは難しいと思っていた人も多かったと思います。自分の限界は超えられたかな、と思います」

 ―NBAの厳しさはどこにありますか。
 「本当に世界中のトップ選手が集まるリーグです。みんなが目指してやってくる中で、そのレベルにいる選手は結構多く、スーパースター以外は代えが利いてしまいます。(八村)塁(レーカーズ)は僕より1個上のレベルにいますが、僕なんかは客観的に見て(絶対に)僕である必要がない。他と見比べたら、そういう力でした。その中で、なぜこのチームに自分が必要なのかをアピールしないといけない。チームメートでも、みんなが本当にライバル。常にお互いを蹴落としながら、という感じの中でやってきました」

 ―バスケに全てをささげる生活とは、どのようなものだったのでしょうか。

 「どこかに遊びに行く余裕は一切なかったです。外出して少し遊んだ方がリラックスできるという人もいますが、僕はそれすらも体力の無駄に感じてしまう。シーズン中は家とアリーナの行き来以外、外に出ることはほとんどなかったです。食生活も突き詰めてやりたかったので、専属のシェフも雇ったりしました」

 ―どんなに苦しくても「20代の間は絶対に逃げない、諦めない」と決めていたと聞きました。第一人者としての使命感のようなものもありましたか。
 「自分が成功することで、次の世代につながってくるんじゃないかという気持ちはありました。あとは、他の選手を見て、自分より力のある選手はたくさんいましたけど、その選手より自分が努力できていると、ずっと思っていました。中途半端な(米挑戦の)やめ方は、努力を積み重ねてきた自分に対しても失礼。(日々全力を注ぎ)NBAに入りたての頃は『NBAでもし6、7年やったら、僕は燃え尽きてしまうんじゃないか』『30歳で引退してもいい』と本当に思っていました」

 ―苦労を重ねる中で「自分らしさを見つけられた」とも話していました。自分らしさとはどんなものですか。

 「僕はいい意味でも悪い意味でも結構頑固なところがあります。自分がこうする、と決めたことは、とにかく曲げずにやり続ける。やると公言した以上、絶対にやり続けるというのが自分らしさなのかなと思っています」

 ―日本人のNBAへの道を大きく切り開きました。
 「やっている時は自分のことで精いっぱいでしたが、今振り返ってみると、多少なりとも、次の選手たちの道しるべになれたんじゃないかと思っています。僕はドラフトされずにはい上がっていくNBAでの生き残り方みたいなものを、自分のプレーで示せた。塁はドラフトされ、塁は塁のしんどさがある中で、実力を証明している。あの世界で生きていく方法があると、僕ら2人が示せたと思っています」

 ―NBAの世界では日本人やアジア人の選手は少数派です。だからこそ苦労したことはありますか。
 「そこに関してはあまり感じたことがありません。単純に向こうでは、力があればリスペクトしてもらえる。アジア人だから、黒人だから、白人だからといったことは関係なく、自分の力を証明すれば、みんながちゃんとリスペクトしてくれたと思っています」

 ―後に続く日本の若者に伝えたいことはありますか。
 「僕や塁が同時期にNBAでプレーしていたことで、日本で今まで以上にNBAを身近なものに感じてもらえたと思います。それをきっかけにNBAを目指し、米国に行ってプレーしたいという子が増えていくことを、本当に望んでいます。僕が『米国に行く』と言っていた頃は(成功に懐疑的な見方もあり)、その考えは『悪』みたいな扱いをされました。僕や塁が向こうであれだけやったことによって、周りの考え方、日本人が米国へ行くことへの捉え方を変えられたんじゃないかと思います」

 ―野球の大リーグでは多くの日本人が活躍しています。NBAでもいつかそんな状況が生まれると思いますか。
 「昔に比べれば日本国内のバスケはかなり盛り上がってきていますし、小さい頃から高いレベルを目指す子どもたちが増えてくると思います。NBAで通用する日本人がたくさん出てくるにはやはり時間がかかるとは思いますが、無理な話ではないんじゃないかと思っています」

 ―渡辺選手も出場した昨年のW杯で日本はアジア最上位となってパリ五輪の出場を決めました。なぜW杯では好結果が出たと思いますか。

 「僕らベテラン陣がいろんな経験を積むことができていたというのが大きいし、本当にハングリーな若手もたくさんいました。その二つがうまく組み合わさりました。日本代表のレベルも毎年、練習の強度を含めて上がってきています。W杯前の最終12人のメンバーに残るための争いは、間違いなく過去と比べても一番大変だったと思います」

 ―練習の強度はどう変化したのでしょうか。

 「僕が日本から米国に行った時に最初に感じた一番の大きな違いが、練習に対する集中力や激しさでした。日本は練習の時間をすごく取るし、みんなが全てのメニューを一生懸命こなしますが、全メニューが80%ぐらい(の力の注ぎ方)になってしまう。逆に米国は、力を抜くところは20%でやるが、集中したらもう100%、120%でやる。今までの日本は本当に強度の高い練習はなかなかできていなかったと思いますが、去年のW杯に関しては、そこは完全にクリアしていた。けがを防ぐため、コーチが途中で練習を止めなきゃいけないぐらい、みんな激しくやっていました。そういうチームはやっぱり強くなるなと思いました」

 ―ホーバス監督もチームを結束させました。
 「明確に『自分たちはやれる』と言ってくれます。英語も日本語も、両方話せることも大きいと思います。やはり通訳を介して聞く言葉と、監督から直接聞く言葉は変わってきます。監督は本当に伝えたい言葉は、いつも日本語で話している印象です。全員を同じ方向に向けるには必要なことなのかなと思いました」

 ―監督とのやりとりでW杯前に印象に残った出来事はありますか。

 「僕がNBAのルール上、遅れて代表に参加した時に、最初のミーティングで僕に対して『ちょっと聞きたいことがあります』と。『このチームでパリに行く自信がありますか』とみんなの前で聞かれたので『もちろんあります』と答えました。後になって、同じことを(代表活動の)最初の練習で一人一人、全員に尋ねたと聞きました。僕がNBA選手だからとかは一切関係ない。ちゃんと自信と覚悟を持ってここに来ているのか、日本代表の1人の選手として戦う意思があるのかを問われました。みんなの前で言わなきゃいけないので、僕も言った以上は、やるしかないという気持ちにもなりました」

 ―W杯後にバスケ人気は一気に高まりました。

 「普段バスケに関わってない人に興味を持ってもらえるかは、代表戦が大きく関わってくると、いつも思っています。パリで勝てるかどうかで、さらにバスケ熱が上がってくるかどうかが変わると思います」

 ―日本でさらに競技が発展していくには、何が必要でしょうか。
 「一つは代表が、常に世界と戦えるだけの力を持つこと。あとは常にバスケができる環境があるかどうか。米国は文化としてバスケが根付いています。車で走っていて、リングを見つけたら、やっぱり誰かが使っている。僕たち日本代表がしっかり勝って、さらにバスケを盛り上げれば、そういう公園やバスケができる環境も、日本でもおのずと増えていくんじゃないか、と。それは僕たちの仕事、責任なのかなと思っています」