日本リーグ・プレーオフ第2ステージで敗退、競技生活に幕

 人気ティックトッカー「レミたん」こと土井レミイ杏利(34)のハンドボール人生が終わった。25日に東京・武蔵野の森総合スポーツプラザで行われた日本リーグのプレーオフ第2ステージ。土井率いるレギュラーシーズン(RS)3位のジークスター東京は。初の決勝進出を目指して同2位のトヨタ車体と対戦。好ゲームを展開したものの終盤に突き放されて27-35で敗れた。今季限りの引退を発表していた土井の最後の大会での日本一の夢は叶わず。8歳から26年の競技人生に幕が引かれた。

 3位表彰の後、引き上げようとする土井をチームメートがコート中央に連れ出した。最後の相手となったトヨタ車体も加わり、両チームの選手の手によって背番号14の体は3回、宙に舞った。「実は前の日から車体とは話していたんです」とジークスターの佐藤智仁監督。知らぬは本人だけ。「何も聞いていなかったから、もう最高でした。今まで経験した胴上げで、一番高かった。26年間、本当に幸せでした」。土井の功績をたたえる異例のサプライズ。チームメートや相手チーム、選手や関係者、そしてファン、多くの人がその引退を惜しんだ。

 21年に大崎電気から移籍したジークスターで迎えた最後の大会、目標は「初優勝」だけだった。今季、佐藤監督が就任した時に引き続き主将を任された。本人は固辞したというが「高いプロ意識、覚悟を決め、命がけでチームのために戦ってくれる。彼しかいないと思って多少強引にやってもらいました」と佐藤監督は明かした。

 日本代表がズラリと揃う「スター軍団」の難しさもあった。代表の過密日程で主力を欠き、サイドの選手ばかりで練習することもあった。代表の遠征から帰国した選手を加えて、ぶっつけ本番でリーグ戦にも挑んだ。チーム崩壊の危機もあったが、主将としてチームをまとめて3年連続のPOへと導いた。

 この日も前半15分に途中出場。現日本代表主将の東江雄斗、元日本代表主将の信太弘樹らとともにコートに立った前日本代表主将は、大きな声でチームを鼓舞し、コートを駆け回った。後半も15分過ぎから出場、ラストマッチはシュート3本で2得点。得意のサイドシュートではなく、中央からの豪快なゴールだった。「サイドはなかなかボールが来なくて、中央に回った。魂で打ちました」と言った。

 もっとも、今季のRSでも連敗している強豪。終わってみれば大差だった。土井は「車体はラース(・ウェルダー)監督を迎えて、さらに強くなった。勝ちたいという気持ちはあったし、最後(決勝)まで行きたかったけど」と振り返りながら、笑顔で「一切後悔はありません。全力を尽くせたし、最後まであきらめなかった。メンタルで負けていなかった。コートの上で選手生命を終えられてよかった」と言った。

 フランス人の父と日本人の母の間に生まれ、千葉で育った土井が、ハンドボールと出会ったのは8歳の時。浦和学院高、日体大とハンドボールの強豪で活躍したが、大学卒業と同時に一度は競技を離れた。実業団チームからの誘いもあったが、両ひざの負傷などで「満足できるプレーができない」と引退。語学留学したフランスで「楽しみのために」ハンドボールを続けた。

 ところが、プレーするうちに故障が癒え、フランスリーグのチームからプロ契約のオファーが舞い込んだ。13年から本場欧州のプロ選手として活躍、16年には日本代表に選出され、17年には同国リーグのオールスター戦で「外国籍選抜チーム」の一員としてプレーした。19年には東京五輪のために帰国し、日本リーグの大崎電気入り。一度は引退しながらもプロとして10年余りプレー。「自分にとっては、ギフトでした」と振り返った。

ジークスター東京とトヨタ車体の選手に胴上げされる土井レミイ杏利【写真:荻島弘一】

“大谷クラス”のSNSフォロワー数「外に向けて発信しないと意味はない」

 そんな土井を一躍有名にしたのはTiktokクリエーター「レミたん」の存在。フランス時代の18年に趣味として始めたが、その面白さが受けて一気にフォロワー数を伸ばした。20年7月には100万人を突破、東京五輪開幕前には250万人、現在その数は700万人を超えている。

「数字は気にしていません」という土井だが、700万人という数字は驚異的だ。日本人のスポーツ選手で比べてもTiktokでは断トツ。他のSNSを合わせても大谷翔平のインスタグラム800万人に次ぐ。「日本のアスリートでトップの座を譲っちゃいましたね。今度は1000万人まで増やして抜き返します」と笑うほど。競技の人気、選手としての知名度では遠く及ばないが「インフルエンサー」としてのフォロワー数だけなら「大谷クラス」なのだ。

 もっとも、レミたんの投稿にはハンドボール関連がほどんとない。見て笑える面白動画ばかりで、レミたんがハンドボール選手だと知らないフォロワーも多いという。ごくまれにハンドボール選手であることを明かし、競技を紹介する。それが「ハンドボールをメジャーにしたい」土井の策なのだ。「内向きの発信をしても広がらない。ハンドボールを知ってもらって、試合を見に来てもらう。外に向けて発信しないと、意味はないんです」。ハンドボールの競技人口は約10万人。その70倍のフォロワーが土井にはついている。

 すでに引退後の青写真を描き、準備も進めているという。もともと多方面に才能を発揮し、ビジネスにも精通している。「これからの人生は長い。セカンドキャリアを考えて、このタイミングで引退を決めました。今までの経験も生かして、いろいろなことを発信し、伝えていきたい」と話した。

 具体的なことは「まだ決まっていない」と説明したが、ハンドボールには今後も関わっていく。目指すのは競技の普及。スポーツ界では唯一無二の発信力を生かして、ジークスター東京はもちろん、日本協会や日本リーグとも幅広く活動していく思いがある。「今後の自分の行動は、9割9分はハンドボールのため」とも話した。

 フランスでのプロ経験もあって誰よりも高い意識でハンドボールに取り組んだ。日本代表入りした当初は、実業団選手たちの意識の低さに怒り「もっと意識を変えないと、ハンドボールの未来はない」と話した。食事や休養など普段の生活から練習や試合に臨む心構え、積極的に発信し、伝えてきた。少しずつ選手たちにプロ意識が芽生えたことも、パリ五輪での36年ぶりのアジア予選突破につながった。「これから、どんな選手が出てくるか。それも楽しみ」と日本代表にエールを送った。

「スポーツとの出会いが人の生き方に意味を与えることもある。僕の場合は、ハンドボールが人生の意味になりました。ハンドボールは僕にとってずっと楽しいものでした。苦しい時にも生きる希望を与えてもらいました」と、26年間に渡った競技人生への感謝の思いを口にした土井。日本では決してメジャーとは言えないハンドボールの世界で圧倒的な存在感をみせたレミたんはこの日、笑顔でユニホームを脱いだ。

(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

荻島 弘一
1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。