「モータースポーツに働いてきている者の一人とすれば受け止めなければならない。(中略)セナはいませんが、F1は続いていくわけです」

 あの日からもう30年か。フジテレビのF1中継で解説者を務めた故今宮純さんが緊急生中継の中で発した涙交じりの言葉は今も記憶に焼きついている。

 1994年5月1日、伊イモラで行われたF1サンマリノGPの決勝で「音速の貴公子」と呼ばれたアイルトン・セナがコース外のコンクリートウオールに激突。34歳の若さで帰らぬ人となった。

 当時はフジテレビ系の地上波で深夜に数時間遅れでF1中継が放送されていた。当時の私は新聞社に入社して1年目。三重県内で新聞配達の研修をしていた。

 1990年前後の日本はF1の一大ブーム。スポーツ新聞各紙も話題を大きく取り上げていた。その後、ホンダが撤退し、ブームが去りつつあったが、入社した新聞社のスポーツ紙ではF1の専門ページを展開していた。この新聞社を志望したのもF1を取材していつかセナにじかに話をしたいと思ったからだった。

 2、3週間に1度のF1中継は欠かさず、その日も早朝の新聞配達があったが、深夜の中継に備えて自室のテレビを付けっぱなしにしていた。前日にはシムテックのローランド・ラッツェンバーガーが予選2日目にウオールに激突して事故死。グランプリ初日もジョーダンのルーベンス・バリチェロが大クラッシュ。胸騒ぎはしていた。

 当時はインターネットが発達していない時代。第一報はF1中継の前に放送された別の番組の中で知ったと思う。スポーツニュースに続いて本来は録画によるF1中継に入ったが、いきなり生中継に切り替わり、実況陣がセナが大事故に巻き込まれて病院に搬送されたことをリポート。その後は録画で決勝レースが始まったが、途中で事故死の速報がテロップで流れた。その夜は一睡もできなかった。

 その2年後、私はスポーツ紙の部署に配属され、念願だったF1担当になった。しかし、セナはもういない。周りは生前のセナを知る記者ばかりで自分は「知らない世代」。少し気後れしながら現場取材を続けた。

 97年にブラジルGPに派遣され、サンパウロのセナの墓を参拝した。緑にあふれるモルンビー墓地の一画にあり、墓標は銅板のプレートのみで簡素なものだったが、周りにはたくさんの花が手向けられていた。ようやくセナを取材できた気がした。

 あの死を契機にサーキットやマシンの安全対策が徹底的に施されたが、選手が事故死したレースを何度も取材した。97年に富士スピードウェイで行われた全日本F3で若手の横山崇選手が他車に乗り上げてメインストレートのブリッジに激突して他界。2003年には2輪の日本GP(鈴鹿)で加藤大治郎選手がシケイン手前でクラッシュして治療のかいなく26歳で逝去。ジュール・ビアンキ選手が命を落とした15年のF1日本GPも現場にいた。

 モータースポーツは一歩間違えたら命に関わる。安全性は格段に向上したが、今も選手たちは常に危険と隣り合わせで戦っている。毎年5月1日はそれを改めて確認する日でもある。(鶴田真也)