浦和レッズのGK西川周作(37)がJ1史上3人目の通算600試合出場に王手をかけている。6日のホーム・横浜M戦に出場すれば、遠藤保仁(672試合)、楢崎正剛(631試合)に続き、歴代最年少で大台に到達。スポーツ報知の単独インタビューに応じ「まだまだ通過点。引退する時にヤットさん(遠藤)の上に立っていたい」。数々のセーブを重ねてきた手形を添え、思いを語った。(取材・構成=星野浩司)

 20年連続でJ1のゴールマウスを守ってきた西川の史上3人目、600試合出場が目前に迫っている。

 「600という数字のすごさが分からず、あまり気にしていない。周りの選手もよく試合前にメンバー表を見て『周作くん、もう600じゃん!』と話題になったり、記録は光栄でうれしいけど、まだまだ通過点という意識が強いです」

 28年前、小3でFW三浦知良に憧れてサッカーを始めた。ストライカーに憧れたが、練習試合で正GKが欠場した際、監督から指名されてGKに。大分U―18で技術を磨いた。

 「高3でトップチームに2種登録されて、トップチームの練習に行っていた。でも、当然ながら4番手のGK。犬飼という河川敷の練習場で、ピッチの横幅は川辺のギリギリ。プロの選手が紅白戦をする中、CKのスペースでキャッチ練習をしてた。これならユースの練習に行きたいなと思うぐらい、あまりできなかった。でも、早くからトップの選手と練習して、絶対あそこで立ちたいという悔しさ、プロになったら1日でも早く出たい気持ちがあった」

 最も心に刻まれている試合は大分でプロ1年目、19歳でJリーグデビューした05年7月2日の横浜M戦と即答した。

 「試合前日の夜、寮で不安で足が震えちゃって…。試合前のアップでピッチに出た時の大歓声は忘れない。これはGKだけの特権で、自分だけ最初に行けて声援をもらえるのは最高に気持ちいい。今でも一番好きな瞬間です。いいセーブもしたり、直接FKを蹴って大きく外れたり(笑い)。すごく楽しかったし、思い出深いデビューだった」

 06年から3年連続で左膝じん帯を損傷。何度も離脱を繰り返した。

 「今思えば、最初の方に大きなけがをしててよかった。これ以上やったら危険だなとか、自分の体の限界域を知れるようになってきた。この張りはトレーナーに取ってもらってた方がいいなというタイミングが自分でも分かるようになった」

 入院、手術の際はいつも妻・亜美さんに支えられた。

 「1人だったら早々にプロ生活が終わっていたかもしれない。2008年は左膝を手術した福岡の病院に泊まり込みで付き添ってくれた。数年前にプレゼントしてもらった、円柱の振動する健康グッズはボロッボロでメーカーのラベルが剥がれてるけど大切に使ってる。代表を外れてキツい時とか何げない一言で励ましてくれる。ピッチで結果が出せない時、特に2017年は自分へのイライラで家で態度が悪かった。それでもしっかりと受け入れてくれて見守ってくれたり、奥さんに助けられてます」

 6月で38歳。年齢を重ねても学ぶ姿勢は貪欲だ。22年に就任したスペイン人のジョアン・ミレッGKコーチのもと、進化を続ける。

 「この3年で筋肉量は約3キロ増えた。ユニホームサイズは同じだけど、腕回りのパツパツ感が違う。ジョアンと練習していると、年齢は関係ないと感じさせてくれる。クロスが上がった時、先に動いたり無駄なステップを踏まなくてもしっかり軌道を見て一歩目を正しく動けばより広く守れる。効率よくゴール前の空間を守れている」

 独特なトレーニング法に、最初は衝撃を受けた。

 「最初に沖縄キャンプでやったのは、CKの位置から蹴られたボールを目で追うだけの練習。『CKの距離は近いか、遠いか?』と聞かれて、みんな『近いです』って言った。でも、ゴールから引いたロープをコーナーから正面に動かして、同じ距離から『近いか?』って聞かれたら、『遠いです』と答えた。自然と脳でこれは近い、ピンチだって思っちゃってるんだなと。そこは新たな発見だった。考え方が変わって、自分にも余裕ができた」

 メンバー表の先発GK欄はほぼ毎試合、自身の名前がある。目標やモチベ―ションをどう保っているのか―。

 「この10年間、浦和レッズのファン・サポーターの前でひしひしとプレッシャーを感じながらゴール前に立っている。常に結果を求めてプレーしなければ、あのゴールは絶対に守り続けられない。常に自信を持ってやっているけど、21年に(鈴木彩艶に主力を奪われ)出れなかった時の思いや経験も大きい。プロである以上は責任がついてくるし、勝つためにやる。とにかく勝って、みんなに喜んで帰ってもらう。おもてなしの精神です」

 西川のもう1つの強みは「記憶力」にある。

 「私生活ではすぐ忘れて注意されるけど、自分のプレーはかなり覚えてる。うまくセーブできた場面はもちろんだけど、特に失点した映像は何度も見返して、もっとこうできたと話し合う。(22年7月のパリSG戦で)エムバペの角度のない位置からのシュートは先に動いてしまい、手が出ずに失点したとか。反省、改善は尽きないです」

 12年、19年と左手指を骨折。その両手で何度も相手シュートを止めてきた。

 「この手は商売道具。1つのセーブでチームが勝つか負けるかが決まる。けっこう大きくて奇麗なんです。ドアに挟んでけがしないように私生活から気をつけてる。爪が割れないように透明のマニキュアを1週間に1回、二重に塗ってる。GKでは珍しいと思うけど、これも奥さんのアドバイスです」

 37歳での600試合到達は遠藤(38歳)、楢崎(39歳)を抜いて最年少。J1歴代最多の189試合無失点の記録も保持する。

 「最近は同世代がたくさん引退していくけど、その流れに逆らっていきたい。引退は全然考えていないし、何歳まででもやりたい。サッカーが楽しいと純粋に感じる。引退する時にヤットさんの上に立っていたい」

 ◆西川 周作(にしかわ・しゅうさく)1986年6月18日、大分・宇佐市出身。37歳。大分U―18から2005年にトップ昇格。08年北京五輪に出場。10年に広島、14年に浦和移籍。17、22年度ACLで優勝。J1は歴代3位の599試合、日本代表は31試合に出場。利き足は左。家族は妻と2女。183センチ、81キロ。

取材後記

 半ば思いつきで、西川に「手形」を提案すると「いいっすね、やりましょう!」と即OK。右手にインクを塗りたぐり、左手を添えて色紙にグッと押しつけてくれた。その光景は、さながら力士。故郷の大分・宇佐市は第35代横綱、双葉山を生んだ相撲どころだ。

 幼少期は名物のから揚げを食べまくり、ふっくらしていた自身の体格を「横綱」と振り返る。最近では家族ともに両国国技館で大相撲観戦する相撲好き。推しは埼玉栄高出身で対談経験がある翔猿といい「翔猿〜って叫ぶのが楽しい」。取材後に握手した西川の手はまるで力士のように大きく、頑丈だった。(星)