伝統男子校の埼玉・松山高は、今夏のパリ五輪マラソン代表の小山直城(27)=ホンダ、東農大卒=、昨季の国学院大主将の伊地知賢造(22)=ヤクルト=ら多くの好選手を輩出している。昔も今も松山高ランナーは野球部と共用のグラウンドで練習。県立進学校でありながら強豪私立校に劣らない強い「個」が生まれる秘密を探った。(取材・構成=竹内 達朗)

 創立102年目を迎えた伝統の男子校。「文武不岐(ぶんぶふき)」を建学の精神とする松山高の校舎には「小山直城選手 男子マラソンパリ五輪内定」、「東京大学文科三類 現役合格」という垂れ幕が誇らしげに並んでいた。陸上部の練習グラウンドは野球部と共用。300メートルの土トラックの一部は遊撃手の守備位置と重なっており、陸上部員は野球部員の間を縫って走る。

 「小山も伊地知も、この環境で少しずつ強くなりました」。08年から今年3月まで16年間、陸上部の顧問を務めた青木美智留教諭(46)は笑顔で話す。

 今まで松山高は多くの好選手を輩出。最近では同校陸上部出身として4人目の五輪出場を果たす小山、今春に卒業した世代で唯一、学生3大駅伝にフル出場した伊地知らが活躍している。

 7区間で競う高校の駅伝では、埼玉栄、武蔵越生などの埼玉県内私立にはかなわないが、継続的に強い「個」が生まれている。青木教諭は「全員が『どうすれば自分が成長できるか』と常に考えています。だから、成長を続けられるのでしょう」と柔和な笑みを浮かべた。今春、小川高に異動した青木教諭に代わり、顧問に就任した新任の大下碧斗教諭(22)も「自分で考えて行動できる生徒ばかり」と驚きを持っている。

 「考える力」は、陸上部だけではなく高校すべてに通じている。「陸上部と野球部で、どのタイミングでグラウンドを譲り合うか。生徒が話し合って決めています」と青木教諭は明かす。

 大学指導者の間でも松山高の評価は高い。21年箱根で8区2位と力走した野口英希さん(24)を指導した東洋大の酒井俊幸監督(47)は「松山高出身の選手は自分で考える力があるので、箱根駅伝や大学卒業後も活躍できる選手が多いと思います」と称賛する。長男が現在、2年に在学中で“親目線”でも「生徒全員が部活動と勉学の両立に努めており、学校全体の教育が素晴らしい」と信頼を寄せている。

 松山高には大会時に掲げられる代々の横断幕が部室で大事に保管されている。そのひとつが80年代に掲げられた「人間死ぬ事はあっても負ける事はない!『老人と海』より」だ。米国の小説家、アーネスト・ヘミングウェー(1899〜1961年)の名作の一節は、勝敗を超越した不屈の精神を伝えており、在校生に受け継がれている。鵜飼凌佑(2年)は「まだ力不足ですが必ず箱根駅伝を走りたい」と目を輝かせた。

 野球部の硬球が飛んでくることもあるグラウンドは「箱根への道」、さらには「箱根から先の道」につながっている。

 ◆松山高陸上部の主なOB 五輪代表は64年東京でハンマー投げの笠原章平、88年ソウルで100メートルの大沢知宏、14年ソチ冬季でボブスレー4人乗りの佐藤真太郎、24年パリでマラソン・小山直城の4人。箱根駅伝では中大で学生3大駅伝にフル出場した板橋弘行、早大で箱根駅伝区間賞3回の小林正幹らがいる(敬称略)。

 ◆松山高 1923年、現在の埼玉・東松山市に県立松山中として開校。48年に現校名に改称。旧制中時代から続く伝統の男子校。建学の精神は「文武不岐」。文武は別ものを前提とした「両道」ではなく「不岐(わかれていない)」。学業と部活動を分け隔てなく励む、という意味を持つ。旧校舎は国の登録有形文化財に指定。陸上部は87年に全国高校総体で総合優勝、全国高校駅伝に出場1回(79年、45位)。主なOBは元労働相の山口敏夫氏、TBSの伊藤隆佑アナウンサー。

 ◆取材後記 埼玉の高校で陸上をしていた私にとって、松山高は畏敬(いけい)の念を抱くチームだった。87年の全国高校総体で同学年の大沢知宏さんが100メートル、板橋弘行さんが3000メートル障害で優勝し、学校対抗戦で日本一になった。

 競技力だけではなく存在が際立っていた。私は初めて県大会に出場した時、上尾陸上競技場に掲げられていた松山高の横断幕「人間死ぬ事はあっても負ける事はない!」に衝撃を受けた。インターネットがない時代。大会翌日、高校の図書室に初めて行って、出典の「老人と海」という小説を初めて知り、初めて本を借りた。小山、伊地知ら松山高OBのガッツあふれる走りを見るたびに名作の一節を思い出す。

 今回、取材で松山高を訪れ、歴代の横断幕が大事に保管されていることに本物の伝統校の奥深さを感じた。37年ぶりに拝見した横断幕に、初めて見た時と同じく感動した。(箱根駅伝担当・竹内 達朗)