5月6日、東京ドームで史上始めて日本人プロボクサーとしてのメインイベントを務め、TKOで見事ルイス・ネリに勝利した井上尚弥。その井上の世界戦を、いつも涙ながらに見守ってきた幼なじみのプロボクサーがいる――。(Number Webインタビュー全2回の第1回)

試合を見ると、いつも涙が出てしまう

 リングに上がれば、小さい頃から知る幼なじみが近くて遠い存在になる。5月6日、4万3000人が熱狂する東京ドームのリングサイドに近い席で、手に汗握りながら井上尚弥のルイス・ネリ(メキシコ)との防衛戦を観戦していた。1回のキャリア初ダウンには驚きを隠せずに言葉を失い、2回にダウンを奪い返すと、声をからすほど叫んで立ちくらみを起こす。そして、6回には圧巻のTKO劇を目の当たりにして、思わず涙腺が緩みかけた。

「ナオ(尚弥)の試合を見ると、いつも感情移入して涙が出てしまうんです。あの日はなんとか我慢しましたけどね。昔から一緒にロードワークをしていますし、準備の過程も知っています。想像を絶するプレッシャーはあったと思いますが、試合前からそんなところは一切見せなくて。勝つたびに思うんです。頑張ってきたことが報われて良かったと」

井上尚弥はリオネル・メッシ

 世界スーパーバンタム級4団体統一王者の井上と28年来の付き合いになる山口聖矢はしみじみと話す。昨年8月、同門の大橋ジムから元Jリーガーの肩書を持つボクサーとしてライト級4回戦でプロデビューし、いまはジムメイトとして、ともに汗を流す仲。同じ時間を長く過ごすようになり、あらためて感じている。パウンド・フォー・パウンドで1位にランクされたモンスターの顔を頭に浮かべると、ふと頬を緩めた。

「サッカー選手に例えれば、(史上最高の選手と言われる)アルゼンチン代表のリオネル・メッシですよ。真似したくても、誰も真似できませんから。何もかもがすごいですが、普段のナオは昔のまんま、いまも変わりませんね。めっちゃ“悪ガキ”ですよ。公園で鬼ごっこしていたときと同じです」

家族ぐるみの付き合い

 2人の出会いは、井上がボクシングをまだ始める前、神奈川県座間市内の幼稚園時代までさかのぼる。仲良くなったきっかけは、入園式での偶然の出来事。井上がサイズ違いの山口の靴を履き間違えて、そのまま家に帰ってしまったのだ。後日、母親と一緒に井上家へ自分の靴を取りに行ったのが交流の始まり。互いの自宅は徒歩2、3分の距離。自然と仲良くなり、家族ぐるみの付き合いをするようになったという。より親交が深まったのは運動会。山口の父親が場所取りのために一番乗りを目指して朝早くに会場に出向くと、すでに陣取っている父兄がいた。井上の父、真吾さん(現トレーナー)である。

「朝5時からいたみたいです。うちの父親も『もう来ていたんですか』と会話をかわし、そこから親同士も仲良くなっていったようです。いまナオも自分の子供の運動会では朝早くから場所取りしていますし、父から息子へ受け継がれているのかもしれませんね」

あの頃は僕よりサッカーがうまかった

 幼少期は、幼稚園内のクラブ活動でよくサッカーをしていたことも覚えている。

「たぶん、あの頃は僕よりもうまかったです。いまでも意外にボールを蹴れて、リフティングは100回くらいできると思いますよ」

 山口は小学校に入ると、兄の影響もあり、サッカーの道を選んだが、ボールを蹴るセンスを持った幼なじみは気がつけば、父の真吾さんのもとでボクシングを始めていた。放課後はお互いに別の競技に打ち込みながらも、関係性は変わらなかった。ランドセルを卒業し、中学生になっても、公園で無邪気にドッジボールや鬼ごっこなどをして遊んでいたという。

高校は別々の道に

「ずっと少年でした。僕が大学生のときもナオたちと鬼ごっこをした思い出がありますから。弟の拓真(現WBA世界バンタム級王者)、従兄弟の井上浩樹(元WBOアジアパシフィックスーパーライト級王者)を含め4人でロードワークしている途中に誰かが背中にタッチにすると、そのまま鬼ごっこになって……。座間市内中を走り回ったこともありました。あのときは、確か2時間くらいはしていたと思いますよ」

 ただ、高校から2人は別々の進路を取るようになる。山口はサッカーのスポーツ推薦で山梨学院大附属高校(現・山梨学院高校)に進学して寮生活を送り、井上は神奈川の新磯高校(現・相模原弥栄高校)に進んでボクシング漬けの毎日。数カ月に1度、プライベートの近況を連絡する程度である。互いの競技は話題に上がらず、気の合う2人は他愛もない話ばかりをしていたという。井上が1年生から高校年代の大会をことごとく制し、3年時にシニアの全日本選手権で初優勝を果たしたことすら山口は知らなかったという。

ナオって、すごいボクサーだったんだ

 プロサッカー選手を夢見る山口自身も、順調なキャリアを歩んでいた。インターハイに出場し、3年夏には関東学院大学への入学が内定。冬は全国高校サッカー選手権の舞台に立っている。超高校級と言われた白崎凌兵(現清水エスパルス)を擁したチームは優勝候補の一角として注目され、背番号2を付けた山口もサイドバックとして活躍。2回戦で敗退したが、13年前の記憶は鮮明に残っている。18歳の自分を思い返すと、柔和な笑みが漏れる。

「高校サッカーに憧れていましたからね。青春でした。山梨はボクシングが盛んな地域でもなかったですし、ナオの話も聞いたことがなくて……。どれほどの存在なのかは、まだ分かっていなかったですね」

 井上がボクシング界の至宝であることを認識したのは2012年の秋。当時、山口は大学1年生。異例のA級(8回戦)でプロデビュー戦に臨む幼なじみの名前がメディアで大きく報じられると、目を丸くした。

「そこで初めてアマチュア7冠のことを知り、『ナオって、すごいボクサーだったんだ』って思ったんです。何となく強いことは分かっていましたけど、そこまでだったのかと。ナオは僕にボクシングのことを話さなかったので」

 それ以来、関東大学2部リーグでJリーガーを目指しながら、無二の親友が駆け足で世界に駆け上がっていく試合をチェックしてきた。

伊東純也とマッチアップも

 幼なじみのファイトは、その活躍を知ってからほとんど欠かさず応援に駆けつけている。会場から出てくるのを待ち、試合後に井上家とともに食事に出かけるのはお決まりのコースとなった。2014年4月、世界初挑戦で20歳の井上がWBCライトフライ級王座を獲得したときは大きな刺激を受けた。

「僕もプロを目指していたので、励みになりました。ナオはやっぱりすごいんだな、と思いましたし、こっちも頑張らないといけないって。一番近い存在だったので」

 当時、大学3年生の山口は関東学院大で主力のセンターバックとしてプレー。関東大学2部リーグでは後に日本代表となる神奈川大の伊東純也(現スタッド・ランス=フランス)ともマッチアップし、「めちゃくちゃ速くて後ろからスライディングしても触(さわ)れなかった」と規格外のスピードに翻弄されたりもしたが、モチベーションはより高まった。

これからは一緒に遊べるね

 180cm超えが当たり前のセンターバックでは174cmの体格はかなり小柄な部類だったが、山口は必死のアピールを続けた。卒業後の進路が決まったのは、大学最後のシーズンが終わり、年をまたいだ1月。声がかかったのは北信越1部リーグ(5部相当)のサウルコス福井(現・福井ユナイテッドFC)。プロ契約ではなく、午前中にサッカーの練習を終えると、午後1時から6時、7時までは介護系の仕事をこなした。だが、野心は持ち続けていた。目指すべき場所はJリーグ。そして、社会人2年目でようやくJ3リーグのSC相模原にたどり着く。当時、WBO世界スーパーフライ級王座の防衛を重ねていた井上も、地元への凱旋を喜んでいたようだ。

「覚えているのは住む場所が近くなったこともあり、『これからは一緒に遊べるね』って(笑)。実際、ロードワークはよく一緒にしましたね。ナオとは何も会話がなくても何時間でも過ごせるほど、互いに気を使わない関係なので。普段はサッカーについて何も言わないナオに、あのときは『ここからだね』という感じで言われたかな」

1分だけの途中出場

 満を持して臨んだJ3リーグは、度重なるケガに苦しめられた。左足首の疲労骨折に加え、ヒザまで負傷。2シーズン在籍し、公式戦に出場したのは1試合のみである。それでも、17年6月18日、藤枝MYFC戦の終了間際にピッチに立った記憶はいまも頭に残っている。

「初出場は感慨深かったです。試合に勝てたこともあり、安永聡太郎監督に『ナイスプレー』と言ってもらえて。たいしたことはしていませんが、うれしかったですね。1分だけど、本当に楽しかった」

 相模原から契約満了を告げられたのは25歳の冬。すんなりサッカーキャリアに終止符を打つ気には、なかなかなれなかった。社会人リーグの地方チームからオファーも届き、ある程度のサラリーも保証されていた。下のカテゴリーでチャレンジもできるが、先の長い人生もある――。思いを巡らせているときだった。普段は仕事のことを話さない幼なじみの前で、悩みを口にしていた。すると、井上からは率直な意見が返ってきた。

<つづく>

文=杉園昌之

photograph by Takuya Sugiyama