球史に残る大投手の生涯ベストシーズンの成績を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。沢村栄治、江夏豊、江川卓、山本由伸らに続く第16回は、「最後の300勝投手」鈴木啓示(近鉄)だ。

「成績文句なし」も沢村賞なぜ獲れず?

 鈴木啓示は“記録に残る大投手”である。通算317勝は史上4位。通算奪三振3061個も史上4位。通算被本塁打560本と通算無四球試合78試合はともに日本記録。6年連続最多奪三振も江夏豊と並ぶ日本記録。最多奪三振8回はパ・リーグ記録である。

 そんな「記録男」の鈴木だが、その年の最高の先発型投手に贈られる「沢村賞」に限っては、一度も手にしていない。沢村賞は、1988年まで選考対象がセ・リーグの投手に限られていたため、1966年から85年にかけて近鉄一筋で活躍した鈴木は対象外だったのだ。

 筆者の検証では、仮にパ・リーグの投手も沢村賞の対象だった場合、鈴木は1969年、77年、78年と、3度受賞していた可能性が高い。そのとおり受賞していれば、杉下茂(中日)、金田正一(国鉄他)、村山実(阪神)、斎藤雅樹(巨人)、山本由伸(オリックス)と並ぶ史上最多受賞である。

 実際、1969年の沢村賞は高橋一三(巨人)で、この年の鈴木は沢村賞選考項目である登板数、完投数、勝利数、勝率、投球回、奪三振、防御率の7項目中、勝率と防御率を除く5項目で高橋を上回っている。

 1977年の沢村賞・小林繁(巨人)との比較でも7項目中4項目で上回り、78年の松岡弘(ヤクルト)に対しても7項目中6項目で勝っている。また、77年、78年と連続してパ・リーグのMVPを受賞した同リーグのライバル山田久志(阪急)と比較しても、この2年とも鈴木が勝ち越している。

「バケモンかいな」鈴木啓示とは何者か?

 鈴木は兵庫県の出身。育英高校(兵庫)時代は、1年下で近隣にある大阪学院大高のエースだった江夏豊に大きな影響を与えたことで知られる。

 鈴木が3年、江夏が2年のときに初めて試合で投げ合うと、延長15回で鈴木が27奪三振、江夏が15奪三振。5番打者だった江夏は5打数5三振、4番打者も5打数5三振。バットにかすりもしなかったという。(『ベースボールマガジン』2023年2月号)

「鈴木という投手をはじめて見たとたん、高校生でこんなヤツがおるんか?と驚きました。上には上がいることを教えてくれたのが鈴木だったんです。(中略)真っすぐが速かった。しかもカーブというボールをもっている。鈴木ほど大きなカーブを投げるピッチャーは、私が見たなかにはいなかった。バケモンかいなって思ったのが第一印象です」(『エースの資格』PHP新書/江夏豊著)

江夏と同時代に活躍…「2人の違い」

 1966年のプロ入り後、鈴木は2年目から、江夏は1年目から、同じ時期の6年間をセ・パそれぞれに分かれて奪三振王に君臨するなど活躍したが、江夏が途中からクローザーに転向したのに対して、鈴木は最後まで先発完投にこだわった。

 鈴木が記録に残る大投手になれたのは、力の投球が通用しなくなって成績が急降下した1972年からの低迷の3年間を経て、1974年に就任した西本幸雄監督の指導により直球主体の投球から、制球と配球を重視する頭脳派への変身に成功したのが大きい。

 鈴木の通算成績上の最大の特徴は、被本塁打数と無四球試合それぞれの日本記録を持っていることだろう。普通、低めへの制球力があれば、それほど本塁打を打たれないはずだが、若かった頃の鈴木は、細かいコントロールがなく、打てるものなら打ってみろと、渾身のストレートをストライクゾーンに投げ込む投球スタイルだった。

怪物の逆襲がはじまった日

「阪急で山田久志らを育てて黄金時代を築いた西本は、『俺のストレートが打たれたのならしゃあない、そんなピッチングは困る。遅くてもいいから打たれない球を投げてくれ』、『力はいらん。勝てるピッチングをしてくれ』それを言い続けた。最初は反発していた鈴木も、これだけ繰り返すのは俺のことを思ってくれているからだと思った。やってみようと気持ちが変わった。(中略)軸をぶらさず、コントロールを重視するため、ノーワインドアップからゆったりしたモーションで足を上げてリリースし、静から動のイメージで、できるだけ無駄な力を入れず、リリースの瞬間にピュッと力を入れるように変えた。アウトローへの制球がよくなり、打者を簡単に打ち取れるようになった」(『ベースボールマガジン』2022年8月号)

 低迷していた鈴木の成績は、西本監督就任2年目の75年からV字回復して、この年勝率.786でリーグ最高勝率を記録。勢いに乗って77年、78年と最多勝、最多完投、最多完封。特に78年は、他に最多奪三振、最優秀防御率、WHIPも1位となり、プロ入り13年目にして鈴木のベストシーズンとなった。

 では、パ・リーグの奪三振王だった頃の鈴木のストレートはどのくらい速かったのか。スピードガンがなかった時代、日刊スポーツの金子勝美カメラマンは、1秒で48コマ写るドイツ製のアイモ(連続写真)改造機を使用して、ボールが投手の手を離れてから捕手のミットに収まるまでコマ数を数えて、そこから投手の球速を割り出した。この手法で測定した投手の中で、パ・リーグの最速が鈴木の157キロ(初速に換算)、セ・リーグは江夏で161キロだったという。(『牙―江夏豊とその時代』埼玉福祉会/後藤正治著)

現王者・江夏豊と比較…どちらがNo.1か?

 では、当企画の現チャンピオン江夏豊とのベストシーズン対決である。鈴木のベストシーズンは、パ・リーグの完投数、完封数、無四球試合数、勝利数、奪三振、防御率、WHIPで1位になった1978年になる。このうち、奪三振以外は鈴木の生涯ベストの数字になっている。(赤字はリーグ最高、太字は生涯自己最高) 

【1968年の江夏】登板49、完投26、完封8、勝敗25-12、勝率.676、投球回329.0、被安打200、奪三振401、与四球97、防御率2.13、WHIP0.90

【1978年の鈴木】登板37、完投30 、完封8、勝敗25-10、勝率.714、投球回294.1、被安打234、奪三振178、与四球42、防御率2.02、WHIP0.94

 完投数は先発完投にこだわった鈴木がリード。完封数、勝利数は互角。勝率でも鈴木が上回っている。

 一方、当企画で重視する“打者圧倒度”を見ると、1試合当たりの被安打数は、江夏の5.47に対して、鈴木7.15と江夏が大きくリード。1試合当たりの奪三振数は、江夏の10.97に対して鈴木5.44と、ここはさすがにシーズン奪三振の世界記録を樹立した68年の江夏が圧倒。鈴木も入団3年目には305奪三振を記録したが、技巧派に変身後の13年目では分が悪かった。

 防御率は、江夏の2.13に対して、鈴木が2.02とわずかにリード。WHIPは江夏の0.90対鈴木0.94と、これは微差で江夏。被安打率、奪三振率で圧勝し、WHIPでもわずかに上回った江夏のタイトル防衛とする。

 それにしても、この年の鈴木の1試合あたりの与四球数1.28は見事だ。針の穴を通すと言われた稲尾和久(西鉄)のベストシーズンである1961年の与四球率1.60をも大きく上回っている。技巧派に変身してからも決して打者から逃げなかった鈴木の真骨頂を表す数字と言えるだろう。

文=太田俊明

photograph by KYODO