9番染色体の突然変異または欠損によりさまざまな症状が出る遺伝子疾患「クリーフストラ症候群」。2010年にオランダのクリーフストラ博士によって発見されました。現在その患者数は日本国内で推定100名ほど、治療法はいまだ確立していません。
宮城県在住の大山徳江さんの長女珠生(たまき)さんが、この難病と診断されたのは3歳の秋。生後8カ月での健診後に初めて染色体検査を受けてから診断されるまで、暗闇で光を求めるような毎日を送りました。そのつらい状況をなんとか乗り越えられたのは、まわりの人の支えのおかげだと、大山さんは振り返ります。クリーフストラ症候群日本家族会を立ち上げて活動している大山さんに話を聞きました。
全2回インタビューの1回目です。

病院からの帰り道。娘のこれからを考えて胸が押しつぶれそうになった日

――珠生さんの成長の様子に違和感を抱いたのはいつごろだったのでしょうか?

大山さん(以下、敬称略)生まれたときには、「動脈管開存症」「心室中核欠損症」という二つの心疾患に加えて、聴覚スクリーニング検査では「要検査」、つまり耳が聞こえていないという指摘を受けました。それらについては該当する病院で予後の確認するようにと言われたのがスタートでした。その時点ではそれほど深刻にとらえていませんでした。

4、5カ月ころになっても体幹があまりしっかりせず、抱っこしても腕がダランとしていたんです。そのせいか、飲み込みもあまりよくないように感じ、これから始まる離乳食を食べられるのかちょっと不安を感じていました。でも、2人目だったことの余裕からか、個人差もあるだろうと思っていて、あまり気にしないようにしていたことを覚えています。

また8カ月の健診のときにまわりの赤ちゃんを見たときに、珠生がおすわりをしていなければ、つかまり立ちもしていないことにハッとしました。医師からも検査をすすめられ、宮城県立こども病院で染色体の簡易検査などを受けました。

――そこで「クリーフストラ症候群」と診断されたのですか?

大山 結果が出るまでに時間がかかるとのことでしたから、染色体検査の結果は出ていませんでしたがリハビリを始めました。しかし1回目の結果では、染色体の異常は見つかりませんでした。

原因はわからないけれど、目の前の娘は座ることすらできないんです。医師は「いち早くリハビリを始めたほうが効果は出る」と言ってくれたものの、「原因がわからない」不安はとても大きかったです。

病院からの帰りの車の中でバックミラー越しの娘を見ながら、子どものこれからや一緒に暮らしている両親の戸惑いなどを考え、胸が押しつぶされそうになりました。

なかなか家に帰ることができず、保育所の担任の先生に面談の時間をとってもらいました。「原因もわからない。歩けるようになるかどうかもわからない。もうどうしていいかわからない」と、先生に話しながら涙が止まらなくなりました。

――抱え込んでいた思いがあふれてきたのですね…

大山 私の話を聞いた担任の先生は「お母さん、一緒に頑張って育てましょう」と言ってくれました。

また、所長先生が「保育所は家庭と一緒に子どもを育てるところだから、必要なら先生を加配してリハビリに取り組みましょう。リハビリの資材がなければ工夫して作ればいいのだから」と、サポート体制も整えていただくことができました。

実際にリハビリ用のちょうどいい椅子がないときは、所長先生のご家族が日曜大工で準備するなど、工夫しながら園でできることに取り組んでくださいました。

その後の娘の成長を見ても、所長先生のご理解、励ましのもと、この保育所で過ごせた時間はとても大きかったと思っています。

遺伝子に起因する病気がもたらした家族の戸惑いと縁


――家族、そして大山さんは娘さんの病気をどう受け止めたのたのでしょうか?

大山 夫は現在は実家の農業に携わっていますが、その当時は福祉の相談支援関連の仕事をしていて病気に対する理解があったことは大きかったです。また私の歳の離れた2人の姉もおりに触れ私を支えてくれました。

とはいえ一方で、両親、とくに母は、遺伝子に起因する病気と聞いてかなり戸惑っていたようです。でも一緒に暮らしていくなかで、少しずつ「共に育てよう」という気持ちが生まれてきた気がします。父が娘をかわいがってくれる様子を見るたびに本当に救われていました。

よく家族会のお母さんたちにも話をするのですが、「クリーフストラ症候群」だとわかるまでは、私もいろいろな葛藤がありました。

たとえば健診に行けば、健常なお子さんも一緒で、ほかのお子さんと明らかな差を感じてもどうすることもできない…。自閉症傾向もあるので、突然騒いでしまうこともあって…。メンタル的にとても厳しかったです。

――その状況をどうやって抜けたのでしょうか?

大山 仕事の関係で東日本大震災前後から障害者支援団体の方と交流したり、親御さんの悩みを聞いたりする機会があったんです。

まだ福祉などの環境が整備されていないなか、自分たちの力で進んでいらした先輩のお母さんたちの姿を見ていたので、今度は私が話を聞きに行こう、相談に乗ってもらおうと思うようになりました。

お話・写真提供/大山徳江さん 取材・文/米谷美恵、たまひよONLINE編集部

目の前の子どもが病気、しかも治療法も確立していない難病。そんな現実を突きつけられたとき、母親として何ができるのでしょうか。明るく淡々と話をしてくれた大山徳江さん。その陰には計り知れない不安と絶望があったことは想像に難くありません。障害者に対する理解が難しい地域に住みながら、病気を隠すことなくまわりに助けを求める姿に胸を打たれました。

後編では、同じ病気のお母さんたちと家族会を作った大山さん。珠生さんの生活、そして家族の不安を少しでも軽減したいと家族会を立ち上げるまでの思いを聞きました。

「 #たまひよ家族を考える 」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年3月の情報で、現在と異なる場合があります。

大山徳江さん

PROFILE
宮城県亘理郡山元町出身。団体職員。男、女、女の3児の母。2019年、第2子が「クリーフストラ症候群」と診断。治療法も確立しない難病と闘いながら、2023年家族会を設立。HP、SNSを通じて患児家族や病院関係者にさまざまな情報を発信している。
■クリーフストラ症候群日本家族会
https://ksjapan-family.com/