明治政府で初代司法卿などを務めた江藤新平(1834〜74)の没後150年特別展「江藤新平〜日本の礎を築いた若き稀才の真に迫る〜」が12日まで、佐賀市城内2丁目の佐賀県立佐賀城本丸歴史館で開かれている。首謀者とされた佐賀の乱を江藤の視点から問い直し、その功績を再評価して「復権」につなげることが目的だ。

 江藤は維新の十傑や佐賀の七賢人と称される。三権分立や国民皆教育も唱えた。特別展では、パネルや、映像による専門家の解説、愛用品などで生涯を振り返る。江藤や関係者らの実物の文献資料などを公開している。

 司法卿として裁判所を設置、代言人(弁護士)制度も新設した江藤。今回は、民法制定に向けたフランス人法学者らとの会議録「民法口授」も展示している。

 江藤は朝鮮外交をめぐり政府内で対立が生じた「明治6年政変」で下野。その後、起きる佐賀の乱関連では、大久保利通が佐賀に出陣する2日前に伊藤博文に書いた手紙を紹介。同館の藤井祐介学芸員(41)は「ここで佐賀をたたかねば、明治政府の権威を示せない、と大久保は書いている。それだけ強い意思を持って佐賀を抑えようとしていた」とみる。

 しかも、明治政府の初動が早く、すぐに兵が送られたため、「佐賀として戦わざるを得ない状況になった」と藤井学芸員は指摘する。今回の特別展では、「乱」ではなく自衛の「佐賀戦争」として捉え直す内容だ。江藤らに反乱の意図がなかったことを示す傍証として、三条実美が大久保に宛て、江藤と行動を共にし、やはり首謀者として処刑された島義勇について、自分と岩倉具視が佐賀の同輩たちを「教諭」してくるようにと申し含めて説得したと書いている書簡も展示する。

 江藤は東京へ向かう途中の高知県で捕縛されたが、捕らえた役人は敬意を払い、縄をかけなかったといわれる。江藤が感謝して役人に贈ったとみられ、絶筆とされる佐賀で初公開の書もある。

 藤井学芸員は「不平士族の乱とか、その首謀者で処刑されたという負のイメージを改め、日本の礎を築いたと再評価することが、復権の第一歩になれば」と話す。11、12両日午後2時、藤井学芸員のギャラリートークもある。(三ツ木勝巳)

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 江藤新平の命日の翌日の4月14日、佐賀市の神野公園にある江藤の銅像前で「銅像まつり」が開かれた。江藤の子孫ら約50人が参加し、江藤の功績をたたえた。

 市観光協会主催。江藤の功績を次世代に伝えていこうと、銅像が建てられた1976年の翌年から続き、今回で48回目。江藤らを題材とした寸劇や神事があった。

 東京で弁護士をしている江藤の玄孫(孫の孫)の金子圭子さん(56)は10年ぶりに佐賀に来たという。あいさつで、子どもの頃、江藤が死刑で死んだということにショックを受け、「(江藤について)よそで話してはいけないこと」と思っていたというエピソードを披露。佐賀城本丸歴史館で開催中の展示にも足を運び、江藤の功績について改めて「すごいな」と思ったという。「郷土のみなさんから大事にされてありがたい」と述べた。(岡田将平)