内閣総理大臣、大蔵大臣を計7回、その他、横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁なども務めた不世出の政治家・高橋是清。しかし、その人生は必ずしも順風満帆ではなく、それどころか酒と女にハマり、さらにはギャンブル感覚で銀紙相場(銀貨と紙幣の相場)や米相場にまで手を出すなど、道を踏み外すこともしばしばであった。

 作家で金融史に詳しい板谷敏彦さんの新刊『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』(新潮社)には、是清が16歳の時、酒色に溺れて芸妓の「ヒモ」になった経緯が、当時の花柳界の様子を含めて描かれている。同書から一部を再編集してお届けしよう。

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 是清が本銀町にあった古着商福井数右衛門の奥座敷に居を移した頃仲良くなったのが、長崎で修業し大学南校にいた越前福井藩士山岡次郎である。山岡は明治4(1871)年4月、ちょうど是清が数右衛門の家に引っ越したすぐ後に、福井藩推薦留学生として米国へと旅立つことになっていた。
 
 そのため、是清は飲みに出る材料にはこと欠かず、送別会と称して数右衛門の斡旋(あっせん)で夜な夜な柳橋、日本橋へと繰り出した。

 当時の東京の「六花街」と言えば柳橋、芳町(よしちょう)、新橋、赤坂、神楽坂、浅草で、日本橋といえば芳町(現在の日本橋人形町)だが、現在の中央区八重洲1丁目辺りの檜物町(ひものちょう)も花街として古い。天保の改革で深川などの岡場所(幕府非公認の遊郭)が閉鎖されると、深川の芸妓衆が柳橋、日本橋へ流れこんできた。

 中でも檜物町の日本橋花柳界の芸妓は深川芸妓の気性を受け継ぎ、「気が強く、平素は派手を好まぬが一度一肌脱ぐと利かん気はどうしようもない」と評され、そのため官僚・政治家には人気がないが江戸っ子の商人に好まれた。

桝吉との出会い

 ある晩、大酒を飲んで動けなくなった是清を通称お君、東家桝吉(あずまやますきち)いう福井出身の日本橋芸妓が介抱した。店の者に手伝わせ、是清を人力車に乗せると本銀町の家まで送った。

 是清はなかなかの男前である。大学南校の教師で、英語も話すし、なんと言っても金払いがいさぎよい。いまだに子供みたいなところもあるが、姉御肌にはそこが可愛い。この夜、是清は介抱されるままに桝吉に抱かれた。是清16歳、桝吉は四つ年上だった。

 桝吉は美人な上に芸達者、座持ちの良さが売りで、「東(あずま)」の看板を掲げて妹芸妓4人を抱えていた。この日から桝吉は毎晩のように是清の下宿に泊まっていくようになった。

 こんなやり手芸妓に抱かれた是清は、酒と悦楽にすっかり溺れて、世間で言ういわゆる「腑抜け」になった。いきおい学校では遅刻休講が増え、教師、生徒からの評判は地に堕ちた。是清の評判は実によく地に堕ちるのだ。

おばば様の涙

 この朝も、桝吉は是清の下宿で遅い朝食を一緒に食べていた。昼前に桝吉の妹芸妓が重箱に煮しめなどいろいろとおかずを詰め込んで届けてくれた。お重を広げて箸をつけたところで、数右衛門の手代が、客の来訪を告げた。「芝の祖母さまがおみえになりました」。是清の養祖母のおばば様であった。

 おばば様は仙台藩の瓦解(がかい)にともない一度は仙台へ行き、また愛宕下に戻るなど転々としていたが、是清も時折は顔を合わせていた。芝というのは愛宕下である。

 是清の幼なじみである鈴木知雄から悪いうわさを聞いたのだろう。おばば様は手代の制止もきかず、ずいずいと是清のいる奥座敷へと突き進んでくる。

 ふすまは開いている。桝吉と妹芸妓があわててお重を片付けようとしているところへおばば様が飛び込んできた。おしろいの香り、部屋の隅にはまだ温もりが残る布団が艶(なま)めかしく積んである。是清はうろたえた。

「あーら、お元気そうで、何よりです」。おばば様は是清の目の前に座ると部屋の中を見回した。「して、そちらの女の方は?」。
 
 是清は、思わず「近所の方々です」と答えた。おばば様の視線には怒気があった。是清は蛇ににらまれたカエルである。「アーそうでしたか、孫がいろいろとお世話になっている様子、身体は大きくてもまだまだ子供なので、どうかよろしく」。

 桝吉と妹芸妓はお重をかたづけると、そそくさと是清の下宿を逃げ出した。しばらく重い沈黙が続いたが、「お前の出世だけを祈念している」と、おばば様は涙ながらにそれだけを言って帰っていった。

大学南校を辞める

 いよいよ山岡が米国へとたつというので、是清は桝吉たち東屋の芸妓を引き連れて浅草へ芝居見物に出かけた。

 桜の季節は終わったが、小屋の桟敷で山岡と二人して、芸妓が着る赤い桜模様の派手な長襦袢(ながじゅばん)を着て盛んに杯を重ねていると、大学南校の外国人教師に出くわした。これには是清も驚いたが、向こうだって驚いた。是清は恥じ入り、そのまま家に帰って辞表を書くと学校に提出した。

「芸妓の襦袢姿を外国人教師に見られたからには、もう教師は務まりません」

「私は森(有礼)さんから、いずれメリケンに呼ぶまでの間、あなたを預かってくれと頼まれている」と、校長の加藤弘之は執拗(しつよう)に引きとめてくれたが、是清は無理に頼んで辞めさせてもらった。

金の切れ目は縁の切れ目

 多少の蓄えはあったが、給料が止まった。是清は、変わらぬ派手な生活の出費に加え、学生3人組のために浅草の商人、牧田万象から借りた金の利払いも残り、あっという間に困窮した。

 桝吉はたまにこづかいをくれるようになり、それを握って柳橋へ遊びに行ったりもした。やがて本も着物も売り払うと、金の切れ目は縁の切れ目、福井数右衛門は「まかないが食べたいなら金を入れろ」と、当初のえびす顔から手のひらを返したように是清を冷たくあしらうようになった。見かねた桝吉が是清を日本橋の家に引き取ったが、その時の是清の持ち物は大学南校教頭のグイド・フルベッキから譲り受けた聖書ひとつであった。

芸妓のヒモ

 桝吉の家には、彼女の両親とお抱えの芸妓たちが同居していた。当時の桝吉は、檜物町一、二を争う売れっ子だ。いざ転がり込んでみると、両親がまだ子供の是清を厄介者扱いしたのも道理である。家でブラブラとするわけにもいかず、いきおい桝吉の箱屋の手伝いをやることになった。

 箱屋は現代の芸能人でいえばさしずめ芸妓の付き人兼マネージャーで、座敷のお呼びがかかると三味線を入れる箱をかついでお供した。また料理屋やお得意さんにご機嫌伺いをして芸妓の名刺や名入りの手ぬぐいなどを配って、営業活動もしていた。

 器用な是清は芸妓の着物の着付けも含めてそつなくこなしたが、手持ち無沙汰な仕事だった。ヒモという劣等感も手伝って悪さをしてごまかした。宴もたけなわ、座が盛り上がっていれば、少々の時間延長もしかるべきだが、お時間ですよ、と座をしらけさせたり、これみよがしに桝吉の男ですよと客前で振る舞ったりと、ろくなことをしなかった。

※本記事は、板谷敏彦『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』(新潮社)の一部を再編集して作成したものです。

デイリー新潮編集部