品川駅はJR東日本の4路線、JR東海の東海道新幹線、京急本線が発着する大ターミナルだ。しかし周辺はなんとなく落ち着いていて、渋谷、新宿、池袋のようにJRと私鉄が接続するターミナルのにぎわいに欠ける。

 私は東京都大田区の京急沿線に10年以上住んでいたけれど、沿線の若い人々が遊びに行くところは主に川崎と聞いて意外だった。次いで有楽町、銀座だ。

 品川駅周辺は高層オフィスとホテルが多く、主要産業として港南口に東京都中央卸売市場食肉市場がある。市場を見学したい場合、平日のみ開館する「お肉の情報館」か毎年10月に開かれる「食肉市場まつり」がある。高輪口にはシネコンと水族館もあるけれど、ここもオフィスやホテルに滞在する人向けという印象を受ける。

 そこをなんとかしたいという意味も含めて、現在は高輪口の再開発計画が進んでいる。京急電鉄は高架のプラットホームを地平に移して、JR品川駅から続く自由通路を延長し国道15号をまたぐ。地下には東京メトロ南北線の支線が建設される。

 品川駅は日本の鉄道開業に先駆けて、仮営業が始まった駅だ。それなのに周辺が落ち着いた理由は、品川宿から北へ離れていたことと、駅の西側の高輪は大名屋敷や武家屋敷で、明治以降は皇族、華族の邸宅となっていたから。駅の東側は海だった。港南口は明治時代以降に埋め立てられ、鉄道輸送の発展に呼応して貨物駅や車両基地がつくられた。つまり品川駅周辺は、商業の拠点というより大邸宅や鉄道の要衝(ようしょう)として発展したといえる。

 その品川駅に2003年、東海道新幹線の駅ができた理由も、鉄道の拠点性だった。1964年に開業した東海道新幹線は順調に乗客を増やし、国鉄末期の1985年にひかり6本、こだま4本を運行するまでになっていた。東海道新幹線の輸送力を上げるため、国鉄は品川に新幹線の駅をつくる構想を持っていたという。当時、品川駅には新幹線の車両基地もあったし、大井埠頭につくられた車両基地へ向かう回送列車の信号場(乗客扱いのない停車場)でもあった。

 しかし、国鉄時代の品川駅構想は一旦白紙に戻る。国鉄の膨大な赤字を処理するため、貨物駅や車両基地の土地を国鉄清算事業団に譲渡すると決まったからだ。1987年に国鉄は分割民営化され、東海道新幹線を管轄するJR東海が新幹線品川駅構想を引き継いだ。

●品川駅設置で、東京〜静岡ノンストップ「通勤こだま」増発可能に

 JRグループが発足して3年後の1990年5月24日、JR東海は品川駅構想の再起動を表明した。翌日の読売新聞朝刊によると、東京駅折り返しのままだと1時間当たり下り10本のダイヤが限界であり、品川駅設置によって同15本の運行が見込めるという。

 同日の朝日新聞夕刊によると、新幹線通勤者が増えていることを受けて、東京〜静岡、東京〜三島をノンストップで結ぶ「通勤こだま」を朝夕に走らせたい、と報じていた。当時は1時間当たり下りひかり8本、こだま4本が最高だったというから、読売とは認識にズレがある。ちなみにWikipediaによるとひかり7本、こだま4本となっていた。

 そして2階建て車両を4つもつないだ「グランドひかり」が運行開始。こだま号は全て16両編成に増強され、こだま号の指定席は4列シートへ改造された。

 それはともかくこれを将来は下り15本、内訳としてひかり9本、こだま6本にしたい。そのためには品川駅を設置して、新たな終着駅としたいわけだ。

 「通勤こだま」は東京(品川)〜静岡間を約1時間、東京(品川)〜三島間を約40分で結ぶ。ノンストップにするか、停車駅をつくっても熱海など最小限にするという。通勤こだまの設置によって、普通のこだまの混雑が緩和し、新幹線通勤が普及するという目論見だ。なかなか良いアイデアで、新幹線通勤者は今すぐにでもつくってほしい列車かもしれない。

 ところで、なぜ品川駅ができると、最高下り12本のダイヤを15本にできるのか。これは線路の構造による。列車が折り返す時に運行本数のロスがあり、なおかつ回送列車があるからだ。

 東京駅の東海道本線のプラットホームは3面あり、それぞれの両側に線路がある。つまり3面6線の容量だ。のりばは丸ノ内側から14〜19番線となる。東海道新幹線は複線で左側通行だ。上り列車が14番線に到着する場合は、17、18、19番線から下り列車が発車してもすれ違いが可能だ。15番線と16番線は上り列車に分岐器がふさがれてしまうから、上り列車が14番線に到着して停止するまで動けない。分岐器をふさがれたせいで他の列車が動けなくなる状態を「交差支障」という。

 上り列車が19番線に到着する場合は、14〜18番線の全ての経路をふさぐため、下り列車5本が交差支障の影響を受ける。要するに、折り返し駅において、上り列車と下り列車のすれ違いがスムーズな場合と詰まる場合がある。東海道新幹線は25メートルの長さの電車が16両もつながっていて、それがゆっくり駅に進入するから、交差支障する時間が長い。これが読売新聞、朝日新聞、Wikipediaの下り本数の認識の差だ。下り10本が通常だけど、交差がスムーズであれば下り12本や13本で可能なときがある。

 もうひとつは回送列車だ。東京駅で折り返す全ての列車が客を乗せる列車ではない。大井埠頭にある車両基地からやって来る車両があるし、大井埠頭に帰る車両もある。電車は朝に出庫したら夜まで走りっぱなしでいい、というわけにはいかない。クルマと同じように定期点検が必要で、一定の日数や走行距離で検査を実施する。だからあらかじめ点検期日を考慮して車両の運行予定がつくられている。なるべく交差支障がないように考慮されていると思うけれど、列車の本数が多く、走行距離が長いと回送列車も増える。

 大井埠頭を発着する回送列車は、東京駅と品川駅の間、山手線でいうと田町駅の南にある分岐点を経由する。実は東京駅では下り15本の発車が可能だけれども、そのうち3〜5本は大井埠頭へ向かう回送列車だ。ということは、東海道新幹線は本来、下り15本で運行できるにもかかわらず、その枠を回送列車に取られてしまう。

 そこで品川駅折り返し列車が重要になってくる。品川駅は田町付近の分岐点の南にあるから、東京駅で回送電車がつくった隙間を使って、品川発の列車を設定できる。混雑している東海道新幹線で、1時間当たり3本も増やせればもうかるわけだ。

●JR東海の構想に、JR東日本が激怒

 東海道新幹線の品川駅付近は高架線だったから、これを地上に降ろし、プラットホームは2面4線とする。さらに7本分の留置線を設置する。線路2本だったところにこれだけの設備をつくるためには土地が必要だ。しかし、新幹線の品川駅の車両基地は大井埠頭の車両基地に統合され、貨物駅とともに国鉄清算事業団の保有となって売却予定となっていた。そこで、JR東日本が寝台特急の客車用に使う品川運転所の24ヘクタールのうち、約6ヘクタールの土地を購入する算段だった。

 これに対してJR東日本が反発する。理由は2つ。JR東海がJR東日本に打診せずに、運輸省(当時)に土地買収の意向を伝えたこと。そして買収価格が国鉄分割民営化当時の簿価だったことだ。昔のことだが、これはJR東海が悪い。話の筋が違うし、買収価格が安い。JR東海の「国鉄分割民営化時の領地の区分を変えるだけだから当時の価格にしたい」に対し、JR東日本は「人の土地に勝手に駅をつくるとブチ上げるのはどういうことか」「国の介入を求めるのは民営化の趣旨に反する」「当社には余分な土地などない」などと反発した。

 1990年当時はブルートレインこと東海道本線の寝台特急が勢いを保っていた。紀伊勝浦行きの「紀伊」が利用者減少で廃止され、西鹿児島(現・鹿児島中央)行きの「富士」は宮崎行きに短縮されたとはいえ、博多行きの「あさかぜ」、出雲市行きの「出雲」、長崎・佐世保行き「さくら」、高松行き「瀬戸」、西鹿児島行き「はやぶさ」、熊本・長崎行き「みずほ」が走っていた。

 JR東日本は「好景気で地価が上がっている。民間企業の土地を買うなら時価が当然」と主張する。当時、すでに田町車両センターの移転と再開発は検討されていたと思う。なぜなら、1991年に東北新幹線の上野〜東京間が開業したとき、高架区間のさらに上へ在来線を敷設する準備ができていたからだ。これが現在の上野東京ラインであり、のちに田町車両センターの移転と高輪ゲートウェイ再開発につながる。1991年に準備工事が終っていたからには、その数年前から設計に着手していたはずだ。

 さらに付け加えるともう1つある。JR東海の副社長、葛西敬之氏と、JR東日本の社長、住田正二氏の仲が悪かったこと。そんなことか、と思うけれども、国鉄分割民営化ではともに尽力しただけに、仲を違えば溝が深い。

 1996年8月31日の朝日新聞夕刊で、JR東日本顧問となっていた住田氏がエピソードを披露している。

 東海の現社長の葛西敬之さんは、初めは私に低姿勢でしたが、だんだん態度が変わりました。いつだったか、葛西さんが突然、当社の役員大部屋に「や、どうも」という感じで入ってきた。昔の仲間を訪ねたつもりでしょうが、非常識です。私の席に来たから「おい、よその会社の社長に面会するときは受付を通すなりしろよ」と、退室してもらいました。その後、東海が熱心だったリニアモーターカーについて、私が「民間がやる話じゃない」と批判したりして、疎遠になりました。

(中略)

 東海とのいざこざは兄弟げんかとか言われたが、先方の真意は分かりません。健全な競争意識と、自分さえよければというのは違います。新幹線の増発を狙う東海は一九九〇年、新品川駅構想を勝手にぶち上げた。結局、うちの頭越しに運輸省に働きかけたことをわびたが、すべては当時常務から副社長になった葛西さんの知恵でしょう。

(朝日新聞夕刊経済特集 住田正二・JR東日本顧問 官の論理、民の知恵:6(ビジネス戦記)より)

 土地問題は上記のような対立構造がメディアで話題となったけれども、結局、運輸省の中村徹運輸事務次官の仲介で、JR東海社長の須田寛氏、JR東日本の住田正二氏が会談し、須田社長の謝罪とJR東海の当初案撤回で決着した。中日新聞1992年5月11日朝刊によると、JR東日本としては、いつまでも固辞していると分割民営化の批判が高まり、運輸省との関係も悪化すると考えたようだ。

 その後、JR東海、JR東日本、JR貨物の3社と国鉄清算事業団の実務者レベルで構成する「東海道新幹線輸送力に関する検討委員会」が発足し、実務者レベルの協議が行われた。

 JR東海は約6.2ヘクタールを購入するつもりだったが、協議の結果、約2.6ヘクタールに縮小された。これは国鉄跡地の再開発を進めていた東京都と港区が留置線の残置に反対していること、JR東海の資金負担を軽くするためである。土地は、新幹線車両基地の用地の一部を国鉄清算事業団から買い戻すほか、JR東日本とJR貨物から購入する。またJR東日本の土地の一部を賃借する。買い取り価格については、JR東海が簿価前提で1000億円以内にしたいと考えていたが、バブル景気の崩壊が幸いして、約300億円に収まった。

 用地が減ったぶん、駅の規模も小さくなった。2面4線は維持したものの、プラットホームは細く付帯設備はほとんどなし。留置線は7本の予定が3本になった。こうして東海道新幹線の品川駅は1997年5月26日に着工し、2003年9月15日に完成した。

●品川折り返しの定期列車がない

 新幹線品川駅が完成し、JR東海が期待した新幹線増強策「品川駅折り返し」が可能になった。しかし、実は現在まで品川折り返しの定期列車はない。現在は品川駅6時ちょうどの始発列車「のぞみ99号」があるだけだ。上りの品川終着の列車もない。なぜか。

 振り返ってほしい。最初の品川駅構想では「下り15本」が目標だった。そして現在、「のぞみ12本ダイヤ」が完成し、1時間にひかり2本、こだま2本を加えて「下り19本」を達成している。当初は、300系で最高時速270キロメートル、「ひかり」「こだま」だけを想定していた。しかし、その後の技術の進歩などさまざまな取り組みによって、最高時速285キロメートルの「のぞみ」中心のダイヤになった。

 「品川駅折り返し」を設定しなくても、増発の目的を達してしまった。いや、ここからさらに品川駅折り返しを設定すればもっと増発できそうだが、それは東京側の話。路線全体でこれ以上の容量はないのかもしれない。さらにいうと、リニア中央新幹線が開業すれば、これ以上の増発も不要。減便だって可能になるかもしれない。

 すでに多くの品川駅ユーザーが感じているように、東海道新幹線品川駅は、客にも利点が大きい。山手線の南側の沿線、そこにつながる東急電鉄沿線、京急電鉄沿線を利用する客が東京駅まで行かなくて済む。そこに品川駅折り返し列車ができれば、自由席に座るチャンスも増える。これがなぜ実現しないのか。1つの答えとして、繁忙期の自由席は「廃止」という流れがあるだろう。

●品川駅折り返しは「非常事態用」に

 では品川駅の折り返し設備や留置線は不要かというと、実は役割が残っている。それは「東京駅や車庫分岐点に支障があったときの拠点」だ。もし東京駅で分岐器が故障したら、あるいはのりばの1つで車両が立ち往生したら。それは車両故障だけにとどまらない。乗客トラブルの恐れもある。

 記憶に新しいところでは、2014年1月3日の有楽町駅沿線火災だ。日本経済新聞2014年1月15日「正月の有楽町火災があぶり出した都市防災の『盲点』」によると、午前6時頃、新幹線の線路脇のビルから出火し、パチンコ店、ゲームセンターなど3棟が焼けた。建物の一部は木造3階建てだったという。消火完了は15時31分。けが人はなかった。

 東海道新幹線は火災発生直後から東京〜品川間で運行できなかった。上下106本が運休、238本が遅れ、最大遅れ時間は5時間28分だった。こんなときこそ品川が活躍するはずだったけれども、臨時列車は27本だけだった。乗務員の手配などに時間がかかったという。列車だけなら、上りプラットホームに乗客を降ろし、いったん3本の留置線に引き上げさせて、下りプラットホームから乗せればいいけれど、単純に折り返させれば良いというものではないらしい。

 しかし、JR東海は東海道新幹線で、地震や雪害、豪雨などを想定して二重三重の備えをしている。あの火災を教訓に、今後はもっと適切な復旧運転ができるよう訓練しているだろう。そうでなければ、JR東日本に頭を下げてまでつくった品川駅がもったいない。

(杉山淳一)