それは、過度な感傷を排しようとは努めても、どうしようもなくノスタルジーに襲われる光景だった。

 開幕を5日後に控えた、全仏オープンのセンターコート。

 世界2位のヤニック・シナー(イタリア)に続き、通路の奥からクレーコートへと、錦織圭がゆっくりと姿を現す。

 その時センターコートでは、直前まで練習をしていたラファエル・ナダル(スペイン)とスタン・ワウリンカ(スイス)がベンチで帰り支度をしていた。歩み寄る錦織の姿を見たナダルは、笑顔を浮かべて握手を交わし、軽くポンポンと肩を叩く。続いてワウリンカも、錦織の手をしっかりと握った。


全仏のコートで久々に汗を流す錦織圭 photo by AFLO

 このコートで14度トロフィーを抱いた"赤土の王"ナダルは、これが最後の全仏オープンだと示唆している。

 ワウリンカは、そのナダル支配の時代のなか、全仏を制した数少ない選手のひとり。度重なるケガを乗り越えコートに立ち続ける不屈の男は、今年3月に39歳を迎えた。

 そのふたりの間を悠然と歩む22歳のシナーは、今年1月の全豪オープンを制した新世代の旗手──。

 来る者と去る者の足跡が赤土の上で交錯し、世代交代を表象するかのようなシーンのなか、錦織は3年ぶりとなる全仏オープンへの"帰還"の道を歩んでいた。

 2022年1月に股関節にメスを入れ、以降、足首の捻挫、そしてひざの炎症のためコートを離れる時間の長かった錦織が、果たして今回の全仏オープンに出るかどうかは、直前まで判然としないままだった。

 出場選手リストに名はあるものの、前哨戦はことごとく欠場。3月末のマイアミ・オープン以降、ついぞ公式戦のコートに立つことはなかった。

 その錦織が久々に公(おおやけ)の場に姿を現したのが、シナーとの練習マッチである。ナダルとワウリンカの練習は非公開で行なわれたが、その終了と同時にゲートが開き、堰(せき)を切ったようにファンがなだれ込む。雑踏と歓声が飛び交うなか、錦織とシナーは快音を響かせ、淡々とボールを打ち合った。

【正直ハイリスクだけど出る価値はある】

 シナーも3週間前に臀部を痛めていたこともあり、序盤はお互い、様子を探りながらのラリー交換。だが、ひとたび練習が実戦形式へと移行すると、闘争本能が両者の動きを研ぎ澄ませた。チャンスボールをネットにかけた錦織が、「あーもう!」と叫んで天を仰ぐ。逆に美しいウィナーを決めた時は、その手ごたえを淡々と噛みしめた。

 1時間強に及んだポイント練習の締めくくりは、ストレートに叩き込む錦織のバックハンドウィナー。サインを求めるファンの歓声を浴びながら、ふたりは握手を交わした。

 奇しくもまさにその頃、センターコートから数十メートル離れた「コート・スザンヌ・ランラン」では、全仏2度の準優勝者であるドミニク・ティーム(オーストリア)が予選2回戦で敗退した。それは、今季かぎりの引退を表明している30歳がフランスのファンに別れを告げた瞬間でもある。

 なお、ティームの敗退から数時間後に同じコートで、元世界8位のディエゴ・シュワルツマン(アルゼンチン)も最後の全仏での試合を終えた。身長170㎝の小さな巨人も、来年2月で現役に幕を引くと表明したばかり。31歳の決断だった。

 シナーと練習した翌日も、錦織は28位のセバスチャン・コルダ(アメリカ)、そしてダニエル太郎と会場でボールを打った。そのさらに翌日の24日、会見の席で錦織は、「さすがに(出場することを)決めました。まあ、90%くらいは」と語る。

「いきなりグランドスラムに出るのは、正直ハイリスクな気はしていますが、ハイリターンかはわからないけれど、出る価値はあるのかなと思って」

 それが、錦織の偽らざる胸の内だ。

 不安は当然あるものの、先週はモナコ、そして今週は全仏会場でトップ選手たちと練習することで、「2週間しっかりやれば、けっこう戻ってくるな」と手ごたえを感じてきたという。

 ただ同時に、ツアーを離れていた間に上位勢の顔ぶれも変わり、さらには男子テニスそのもののレベルの向上も感じていると言った。

「今は、周りの選手の強さが確実に上がっている。100位以内の選手に簡単には勝てなくなってきているというのは、全員が言っていることだし、感じてもいます」

 どの選手も弱点が少なく、大型ながらフットワークもよい。そのような新世代の筆頭にいるのが、世界1位に肉薄するシナーだ。

【シュワルツマンとティームの引退に思うこと】

 そのシナーと今回打ち合い得た感触を、錦織は次のように語っている。

「画面で見るのと、正面で向き合い対峙するのでは、印象が違って......やっぱり、強い。フォアでもバックでも、どこからでも叩き込める。バックはフラットに見えるんですが、アングル(鋭角)にいいのが入ってくるので、それが彼の強みでもある。思いっきり打っているようで、何でもできるのが強いところだなと」

 押し寄せるニューウェーブは、テニスシーンを塗り替えて、旧来の選手たちを押し流していく。それは、避けようのない時間の摂理だ。ただ去り行く一群に、ティームとシュワルツマンがいる事実に、錦織はショックを隠さなかった。

「正直、シュワルツマンとティームの引退には、ちょっとくらいましたね。まあ最終的には、もちろん自分が楽しくなくなったらやめればいいかなと思っていますが、やっぱりこう......、自分の同志というか、さらに若く可能性があるふたりがやめるというのは。

 結果が出ない、ケガがつらいのはメンタル的にもくることだし、納得はできるんですが、気持ち的には正直、くらったところはあります」

 同志たちの姿と心に、自身を重ねるように言葉を紡ぐ彼は、最後は自分に問いかけるように言った。

「最終的には自分の気持ちなので、他人がどうこうではないんですが」......と。

 24日に本戦ドローが確定した結果、錦織の初戦の相手は、予選上がりのガブリエル・ディアロ(カナダ)に決まった。昨年までアメリカの大学リーグで戦っていた、カナダ国籍の22歳。ランキングこそ166位だが、身長2メートル超えの大器は、勢いに乗せたら怖い存在なのは間違いない。

 今大会に求める「ハイリターン」の内訳を、錦織はこう明かす。

「緊張する場で戦えることと、自分のために証明できる場にもなる。そういう意味では、いいプレーができれば気持ち的にも得られるものがある」

 時代の奔流から一歩引き、その趨勢(すうせい)をどこか客観的に見ていた錦織が、世代交代の渦の中に身を投じ、自身の存在証明を赤土に刻みにいく。

著者:内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki