「逃げても、逃げてもシェイクスピア」 [著]草生亜紀子

 くらくらした。
 シェイクスピアの全戯曲37作を完全翻訳――日本では、坪内逍遥、小田島雄志氏に続く三人め、女性としては初――という偉業にも、その仕事に松岡和子さんが費やした28年間という時間にも。そして、それ以上に、松岡さん自身に。なんて素敵な方なのか(猫を抱いて微笑〈ほほえ〉む松岡さんの表紙、最高!)。
 松岡さんは1942年生まれ。シェイクスピア全集を出すことが決まったのは、52歳のこと。この時、松岡さんは二つのことを自分に課した。「考え続けること」と「死なない努力をすること」だ。後者のために、「ジムに通い」「定期的に乗馬をし」「七十歳を過ぎてからテニスも始めた」。これらが偏(ひとえ)にシェイクスピアを訳すためだけではなく、「楽しみのため」というのが、たまらなくカッコいい。
 そんな松岡さんだが、実はシェイクスピアから二度「逃走」している。一度めは東京女子大在学中。二度めは、東大大学院時代。だが、結局、松岡さんは逃げきれなかった。シェイクスピアとの因縁は深かったのだ。
 本書では「父と母」と題された第一章、「シェイクスピアとの格闘」と題された第五章で、他の章よりページが費やされている。第一章では、このご両親あってこその松岡さんだ、と胸に落ちるし、第五章では、シェイクスピアとがっつり渡り合う松岡さんの気迫が、びしびし伝わってくる。
 およそ、言葉に携わる者であるなら、松岡さんの仕事(翻訳はもちろん、劇評も)に対する姿勢に感銘を受けるはず。本書での松岡さんが、とてつもない偉業をなしとげた遠い人、としてではなく、回覧板を回す先にいるような〝生活者〟として描かれているからこそ、なお一層。それは、作者の草生さんが、松岡さんに寄せる深い敬愛のあらわれでもある。
 読後、無性にシェイクスピア劇が観(み)たくなる。それは、きっと、松岡さんからのギフトだ。     
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くさおい・あきこ 国際人道支援NGOで働きながら、フリーランスとして翻訳・原稿執筆を行う。著書『理想の小学校を探して』など。