道隆は、さらに落飾した妹の詮子を女院とし、一条天皇の後見としての役割を与えている。詮子には「東三条院」の女院号が贈られることとなった。あとは、自分の息子の伊周をできるだけ出世させておけば、自分にもしものことがあっても安泰だ。そんなふうに考えていたことだろう。

ところが、いつの時代も、権力者の強引なやり方はどこかでしっぺ返しがくるものだ。結果的には、そんな道隆の政権固めは裏目に出ることになる。

「出世おねだりモンスター」と化した藤原伊周

長徳元(995)年4月10日、道隆は43歳で死去。『栄花物語』に「水を飲みきこしめし、いみじう細らせ給い」とあるように、しきりに水を飲みたがったとある。酒の飲みすぎなどによって糖尿病が引き起こされて、死に至ったようだ。

後継者として有力視されたのは、道隆の息子で内大臣の藤原伊周である。道隆は亡くなる1週間前の4月3日に関白を辞職。その翌日の4月4日に、伊周は「関白の随身兵仗を自分につけさせてください」と一条天皇に申し出ている。随身兵仗とは、関白の護衛を行いながら、その威厳を知らしめる存在だったが、それを自分につけてほしいというのだ。

内大臣の身でそんなことを言い出すのは、さすがに勇み足だったようだ。伊周ウォッチャーでもある実資は、もちろん『小右記』で、このことに触れている。

「前例がないことではないか。稀有だと言うべきことだ」

アホらしい、という声が聞こえてきそうだが、伊周が藤原詮子にまで働きかけると、さらに表現をエスカレートさせている。

「このことはきっと嘲笑されるだろう。ようやく顎が外れるほどのことだ」

伊周はというと、そんな周囲の冷たい目もなんのその、一条天皇の動きが鈍いと見るや、御前に参入して、自ら一条天皇に抗議する始末。父が病によってどうなるかわからないなか、精神的にも不安定だったのかもしれない。

このような伊周の暴走に、眉をひそめた公卿は、実資だけではなかっただろう。

道隆は伊周のためを思ってどんどん出世させたが、結果的には孤立を招いたといってよい。それでも、道隆は病床においてもなお、息子を思い、一条天皇に「伊周を関白にしていただきたい」と奏上しているのだから、どうしようもない。