「たんぱく質」 [著]飴屋法水

 飴屋のことばは、私の心をいつも揺さぶる。感動というのとは少し違う。急な訃報(ふほう)を聞いたときのような衝撃と動揺に近い。この本も泣きながら読み、書評も書いては泣けてくるのでなかなか進まない。これはいったいなんなのだろう。
 本書は「小説」だけれども、散文詩のようでも哲学的思索のようでもある。実感として一番近いのは「生きもの」だ。ことばにずっしりとした質量や温度や湿度がある。ほぼ正方形に近く、時計回りに90度回して下から上にページを繰るユニークな本の造形も、背を天に向けて立て置くと、脚が無数に生えたなにかの動物にもみえてくる。
 家族との暮らしや家に居座るゴキブリのこと、何億年か先の未来に消滅するという地球や宇宙のこと、六十数年を生きて命の終わりを予感しつつある作家自身の過去と現在と未来、フィクションとノンフィクション、それらが行きつ戻りつ入り交じる84の断章、その原始のスープのなかをたゆたうように読み進めるうちに気づく。私が泣けてしまうのは、ここにあることばが、人間として生きることの業や悲しみをどこまでも透徹に見すえた深い祈りだからだと。
 人間は水分を除けば半分近くがたんぱく質でできている。虫や動物と成分的には変わらないが、死んでほかの生物の栄養にもならず、焼くか埋めるしかない体だ。この種や個体を選んだわけでも、生まれたかったわけでもない私が、人間として社会のなかで生きている。その合理と不合理、自然と反自然、自由と不自由。その両方を体のなかに抱え込む「私」を考えずにいられないのも、私が人間という動物だからこそ。私たちは考えるたんぱく質だ。
 「それを考え続けるということが/私にとって、私の宗教であったと思う」と彼は言う。信じるとは思考停止や救済ではなく、はてしなく考え続けること。ならばそれは、「私」を生きること、そのものではないか。
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あめや・のりみず 1961年生まれ。劇作家、演出家。高校生と震災、原発事故を描いた『ブルーシート』で岸田国士戯曲賞。